京都いろいろ裏通り

京都の大路小路のあれこれをお届けします。

足許の京都 ⑮ 京都らしい風景

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(写真上 鴨川四条大橋から北山を見やる)

 京都らしい風景ってなんだろう、と時々考える。鹿児島なら桜島、富山なら湾からの立山連峰、大阪は道頓堀と通天閣、東京も同じくスカイツリーや東京タワーなどの構造物である。他、各地にいっぱい「お国自慢」「らしさ」があって選びきれない。

 京都はやっぱり鴨川だろう。これが見えたらやっぱり京都だなと思うものに東寺の五重塔もある。大阪方面からJRで帰ってきて塔の黒々とした姿が見えてくると「ああ、もうすぐだ」となにがしらの感慨を得ることができる。「らしさ」のひとつではある。

 でも個人的には、この鴨川の光景だ。視界のずっと奥の北山や大原方面から流れ来た賀茂川と高野川が合流し、まっすぐ都市の真ん中を貫く流れ。日暮れ前の最後の陽光を浴びて霞み見える峰々、夜を匂わす澄んだ川面、街の色もほんのりと朱色を帯びて黙して佇む。やがて先斗町の料理屋に火が灯り音まで聞こえてきそうな雅やかさを照らし出す。左岸にはアベックの語らう姿や酔客が行き交う様子も見えてくるだろう。

そんなことを考えながらいつまでも眺めていられる景観である。山紫水明とはこのことだ、とときに思う。

江戸の後期、「日本外史」を書き上げた頼山陽の寓居が丸太町橋から北に上がった鴨川西岸にある。山陽は東山と鴨川の絶佳を愛し我が家を「山紫水明処」と名付けた。日暮れが迫り比叡山に連なる東山三十六峰が紫色に染まる。鴨の水も透明度をまして川底の石までも見えてくる、その光景を表すのに山紫水明とはよく言ったものだ。

ちなみに山陽は酒好きで酒器にも凝り、東山と鴨川の流れを飽きずに眺めながら日暮れ時には酒を傾けたとか。

いいなあ。

鴨川河畔に家を買い縁側でごろりと横になってちびちびやる、そんな光景にあこがれている。

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(東山 華頂山から麓の八坂神社の佇まい 四条花見小路付近)

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京都駅ビルからの烏丸通の姿)

 

 

伏見はやっぱり伏水か? その②

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 伏見はやっぱり伏水か?
 
 3日ほど前にアメーバブログで次のような短い記事を書いた。
「欄干の柱に刻まれている「伏水街道」とは「伏見街道」とよむ。橋は二間と短いが、紅葉千本で名高い東福寺を流れる洗玉澗に架かる橋である。
灘と並ぶ関西の酒処伏見。京都盆地の地中を行く豊富な地下水が湧く地。
鎮守の社御香宮に日本名水百選の良質な水が湧く。そんな井戸が各地にある。伏流水の町としての伏水が伏見にてんじたか」

 (下は洗玉澗にかかる石橋 東山区本町通の東福寺前)

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 他の資料を当たっていると「秀吉と伏見時代」(中川正照著 ウインかもがわ刊)にこんなことが書かれていた。
 奈良時代に大和の国に本家をもつ土師部氏が洛南の地に暮らしていた住居は桃山泰長老付近にあったというから丁度、東山三十六峰が宇治川に臨む開いた台地のどこかだろう。
 土師部氏の出身は奈良市近鉄大和西大寺駅南側の菅原の伏見であるらしい(グーグル地図で確認すると「伏見保育園」という名が確認できる)。
「その名をとって台地近辺を「伏見村」と呼び、のち「伏見」となった。その後、平安時代に宇治の平等院を建立した関白藤原頼通の子、俊綱もこの地に伏見の名を取り「伏見山荘」を建てた」
 ということは「伏見」が先で、伏水は後でくっついて来た名前だななどと思っていると、また別の資料には「俯見」という記載もあって何がなんだか判らなくなって来た。
 たぶん古よりこの地に住む人が呼んでいた名前に、様々な思いをもった先人らが漢字を当てて年月が過ぎたということなのだろう。ちなみに漢字は明治12年に「伏見」に統一されたのだそうだ。

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(写真上 酒蔵を改造した店構えの焼き鳥「鳥せい」)造り酒屋「山本本家」の店。代表銘柄「松の翠」は表千家の茶事に使用される。喉越しのまろやかな深い味わい。店脇に伏流水「白菊水」が湧く。自由に飲める。
 
 

足許の京都⑭ 静かな時

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夜の産寧坂を歩きたかった。日中は足許やみやげ物屋のに気を取られ、高い声で交わされる会話に惑わされる。後ろから押されるように、上があるから上る坂。惰性で往来する石段。

夜の帳が黒々と下りるとき、坂の街並みは息を吹き返す。しもた屋は雨戸を閉ざししずまりかえり素顔を取り戻す。ひとつふたつの街灯をたよりに歩く一歩また一歩。鉄の板のように凍てついた石畳。雨濡れの光に冷気を宿す。行く人が来し方を振り返る夜。

足許の京都⑬ 大和大路七条界隈

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<写真は秀吉を祀る豊国神社>

 大和大路通は南北の長い通りだ。北は三条通から南はJR京都線に突き当たって本町通とか伏見街道と名前を変えて南下、紅葉千本の東福寺の山門や伏見稲荷大社の朱の大鳥居を横目に進み、赤煉瓦の洋館の聖母女学院校舎(旧帝国陸軍司令部庁舎)を見ながら下って、最後、国道24号線に吸収されて奈良まで続く。道の先端が奈良=大和に向かっていることから大和大路と呼ばれているようだ。

 見どころ満載の通りだが、京都でも一番おぞましく痛ましいものが集まっているエリアがある。七条大和大路界隈だ。大仏前交番を前に交差点に立ってみる。

 

 南に平清盛後白河法皇に献上した三十三間堂、東に京都国立博物館の煉瓦の壮大な洋館、さらに真言宗の巨刹智積院があって背後には阿弥陀ヶ峰が聳える。

 このエリアは豊臣秀吉とその一族の哀歓がこもっている。

 京都国立博物館の西側に巨岩を積み上げた外壁があるが、かつて豊臣秀吉が建てた方広寺大仏殿の石垣である。

 今は豊国神社となって秀吉を祀っているが、もとは秀吉が大仏殿をつくろうとした場所。秀吉の野心はとどまることを知らず、武家として初めて京都を支配した清盛を超えようとするつもりだったのか、方広寺大仏殿は三十三間堂も飲み込んで寺域に取りこんだ。その痕跡が堂の南大門と太閤塀として当時のまま存在しており権勢の名残をとどめている。

 さて大仏殿。完成間近だったところが慶長伏見大地震で倒壊、秀吉は完成を待たずに死んだが、復興は息子秀頼に引き継がれた。が、建造中の火災で焼失しやっと完成にこぎつたところが梵鐘の銘文「国家安康 君臣豊楽」に家康が難癖をつけてのちの大阪の陣のきっかけになった。寺は豊臣家を滅亡に導いた導火線となった曰くがつく。

 豊国神社から西からまっすぐの道は正面通と呼ばれている。いうまでもないが方広寺の正面だからだ。 大仏殿建立を謳い上げ、正面で平伏せよ、とでも秀吉は言うつもりだったのか。大上段に立った通り名だ。

 神社の西に五輪の塔が立つ塚がある。「耳塚」だ。晩年の秀吉は失政続き、その最たるものの朝鮮出兵の断末魔がここにある。

 半島で戦った大名らが敵将を殺した証として樽詰めされた人の「耳」が秀吉のもとに送られた。普通首実検するところだが輸送上の問題から人の部位として簡便な「耳」が選ばれた。朝鮮の兵士だったか一般市民だったか判らない。何か送れと言われ秀吉の興を損なわないように殺した朝鮮の人々から耳や鼻を削いで樽詰めしたものを送ったのだといわれてもいる。

 京観という言葉がある。歴史家奈良本辰也氏の言葉を引くと「京観とは『いかにも都らしい市街のたたずまい』といったものではない。敵兵の死体をうずたかく積み上げ、土をかぶせて武功の証明にした丘、それが京観だ。『京』は『みやこ』の意味もあるにはあるが『高い丘』の意味もある。京丘という熟語もあり、京観と同じだ」

 とすればみやこというのは夥しい死体が運ばれてくる地だと、いうことになってくる。こんなことを当時の側近や知識階級たる僧侶は知っていたのだろうか。秀吉は樽の中で塩漬けにされた耳がどんどん集まってくるのをただ喜んでいただけなのではないだろうか。「中国では真の武勇者は耳を集めて塚を造るものなのです」などと秀吉に入れ知恵した者がいたかどうか。

 秀吉は遺言通り阿弥陀ヶ峰に埋葬された。眼下に方広寺三十三間堂を見下ろす。

 付け加えれば智積院ももとは和歌山にあった寺院で秀吉の攻めにあって炎上、家康の時代になってこの地に再興された皮肉がある。

 大和大路七条。秀吉と一族の明暗が交差する地である。

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<耳塚>

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<正面通の道標>

今日もカレーを食べてしまった

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 食の好みは人の人生を映すというけれど、子供のときの母親の料理、仲間と連れ立って毎日のように食べに行った下宿近くのメシ屋の定食、結婚してから妻が作ってくれる毎日のご飯など、日々長く舌に刷り込まれ、自分なりに咀嚼してきたものだから動かしがたいものがある。

 私の好物の第一番はカレーライス、ライスカレーどちらでもいい(ほかにはハンバーグ、スパゲティのナポリタン、焼き飯、オムライス、おっとまた今度)。

 てなわけでカレーにはまって1週間、今日は地元でとんかつとカレー専門の「かつ廣」に来てみた。大手筋商店街一本南の通り魚屋町の一角。京阪の伏見桃山駅からだと歩いて5分足らず。このジャンルなら伏見で一番じゃないかと思う。

 スパイスと果物系の甘酸っぱい味がほどよく渾然一体と舌をうならせる。カツはうすめだがさしがたっぷりはいってジューシーかつ甘い。ころもはサックサクでお肉も柔らかくスプーンですんなり割れる。ルーとカツとごはん(麦入り)をスプーンに乗せて頬張れば脳みそまで旨味でご満悦。

 箸でもほぐれるぐらい柔らかいとんかつを提供したいと主人。その思いは壁にかかったとんかつ料理の心構えとでも言おうか、意気込みの書が掲げられている。明治期に東京上野の精養軒で産声を上げたトンカツ史をひもときながら自身の決意を述べたものだ。

 かつカレーのお味、決意そのものでした。

 

日本史のツボ

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 昨日までに読み終えた本が日本中世史が専門の東京大学教授の本郷和人氏が書いた「日本史のツボ」(文春新書)。これまでの山川本に代表される通史や時代を絞った時代史やテーマを絞った各論史(最近では「応仁の乱」が大ブレイク)や京都本に代表される地域史などがあるが、今回のこれ、テーマを絞って古代から江戸期ぐらいを通しで考えている。

天皇、宗教、土地、軍事、地域、女性、経済の七つにテーマを絞って古代から平城京平安京の頃から鎌倉、室町、戦国、江戸の各時代を輪切りにし本質を炙り出そうという試みである。知らなかったなあ、という事実やそうだったかと嘆息する解釈もあってなかなか楽しめた。

全部をここで披瀝する紙面はないのだが、例えば第一章「天皇を知れば日本史がわかる」では、天皇家の由緒と特長についていくつかの小論を設けている。天皇家はもともと大和の地で勢力を伸ばした豪族のひとつが力をつけて他を武力でねじ伏せ君臨してきた一族であった。

645年の天智天皇が実権を握った大化の改新乙巳の変645年)やその弟大海人皇子が天智の子大友皇子に勝利した壬申の乱(670年)、時代は下がって天皇家が武士政権から権力を奪還しようとした承久の乱(1221年)、建武の新政(1333年)で権力を天皇家に奪還した後醍醐天皇がいた。天皇という王家に実質的な統治権力が戻ってくるのは明治維新まで待たなくてはならなかった。

今の天皇家は国民の象徴。天皇皇后両陛下が阪神淡路大震災や東北大地震で被災者を穏やかな表情で見舞う様子や、平和の希求者として沖縄やアジア諸国を歴訪する真摯な姿はどれも印象深い。

だが天皇家もとは血で血を争う武力闘争によって権力基盤を整えて来た集団であったことをこの書で改めて知った。

 

平安京は完成したのか

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<写真 大極殿跡碑 上京区千本丸太町上ル西側> 

 言うまでもなく、今私たちが覚えている「うぐいす鳴くよ」の794年とは遷都の詔勅が発せられた年で、都市が完成した日でもないし宮殿たる内裏の落成記念日でもない。

 その年に桓武天皇はどこで寝起きしていたんだろう、とあるときふと考えた。

 都市計画担当の造営司長官を視察に行かせたのはどうやら前年だったらしい、それまで何回か遊猟などで桓武やその部下が平安京の地を訪れたことはあるだろうが、何年もかかって新しい都市づくりが計画された形跡が見当たらない。

 碁盤の目に街路を整え内裏の宮殿や官衙の建物を建設し、メインストリートの朱雀大路を広げ南端に羅城門を造って左右に東寺と西寺を置く。そして民を住まわせる。そんな巨大プロジェクトが一年やそこらでそれも1200年も昔の稚拙な土木技術の時代に完成させられるはずもない。

  私たちが書物や立体復元図でみる平安京はおそらく何年もかかってたどり着いた完成形なのだろうと思う。いや完成したこともない「こうだったはず」という理念上の都市なのかも知れない。

 完成した都市とも理念上の都市も言い切れないのだが、造営司長官(都市計画の長)だった和気清麻呂(わけのきよまろ)は工事が進行中だった799年に死に、それ以後都市建設は勢いがなくなってしまった。計画を推し進める部局だった造営司もリストラされ木工寮(単なる営繕課)に格下げとなっているから、造都は途中で頓挫していたのではないだろうか。

 

 今私たちは市内各地で平安京のあとをたどることができる。平安神宮大極殿を模したものだし、京都駅前に羅城門のミニチュアをみることができる。西陣のエリアに行けば史跡を書いた碑文を辿ることに寄って1200年前の都市の気配を確認できる。東寺が建立された場所も往古からそこだった。

 しかしどこにも都はとうとう完成したという記録は記録に残っていない。桓武天皇が794年にどこで寝起きしていたかの記録も今にところ私の手元にない。

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