京都いろいろ裏通り

京都の大路小路のあれこれをお届けします。

平安京は完成したのか

f:id:abbeyroad-kaz:20180224161723j:plain

<写真 大極殿跡碑 上京区千本丸太町上ル西側> 

 言うまでもなく、今私たちが覚えている「うぐいす鳴くよ」の794年とは遷都の詔勅が発せられた年で、都市が完成した日でもないし宮殿たる内裏の落成記念日でもない。

 その年に桓武天皇はどこで寝起きしていたんだろう、とあるときふと考えた。

 都市計画担当の造営司長官を視察に行かせたのはどうやら前年だったらしい、それまで何回か遊猟などで桓武やその部下が平安京の地を訪れたことはあるだろうが、何年もかかって新しい都市づくりが計画された形跡が見当たらない。

 碁盤の目に街路を整え内裏の宮殿や官衙の建物を建設し、メインストリートの朱雀大路を広げ南端に羅城門を造って左右に東寺と西寺を置く。そして民を住まわせる。そんな巨大プロジェクトが一年やそこらでそれも1200年も昔の稚拙な土木技術の時代に完成させられるはずもない。

  私たちが書物や立体復元図でみる平安京はおそらく何年もかかってたどり着いた完成形なのだろうと思う。いや完成したこともない「こうだったはず」という理念上の都市なのかも知れない。

 完成した都市とも理念上の都市も言い切れないのだが、造営司長官(都市計画の長)だった和気清麻呂(わけのきよまろ)は工事が進行中だった799年に死に、それ以後都市建設は勢いがなくなってしまった。計画を推し進める部局だった造営司もリストラされ木工寮(単なる営繕課)に格下げとなっているから、造都は途中で頓挫していたのではないだろうか。

 

 今私たちは市内各地で平安京のあとをたどることができる。平安神宮大極殿を模したものだし、京都駅前に羅城門のミニチュアをみることができる。西陣のエリアに行けば史跡を書いた碑文を辿ることに寄って1200年前の都市の気配を確認できる。東寺が建立された場所も往古からそこだった。

 しかしどこにも都はとうとう完成したという記録は記録に残っていない。桓武天皇が794年にどこで寝起きしていたかの記録も今にところ私の手元にない。

ameblo.jp