京都いろいろ裏通り

京都の大路小路のあれこれをお届けします。

足許の京都⑬ 大和大路七条界隈

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<写真は秀吉を祀る豊国神社>

 大和大路通は南北の長い通りだ。北は三条通から南はJR京都線に突き当たって本町通とか伏見街道と名前を変えて南下、紅葉千本の東福寺の山門や伏見稲荷大社の朱の大鳥居を横目に進み、赤煉瓦の洋館の聖母女学院校舎(旧帝国陸軍司令部庁舎)を見ながら下って、最後、国道24号線に吸収されて奈良まで続く。道の先端が奈良=大和に向かっていることから大和大路と呼ばれているようだ。

 見どころ満載の通りだが、京都でも一番おぞましく痛ましいものが集まっているエリアがある。七条大和大路界隈だ。大仏前交番を前に交差点に立ってみる。

 

 南に平清盛後白河法皇に献上した三十三間堂、東に京都国立博物館の煉瓦の壮大な洋館、さらに真言宗の巨刹智積院があって背後には阿弥陀ヶ峰が聳える。

 このエリアは豊臣秀吉とその一族の哀歓がこもっている。

 京都国立博物館の西側に巨岩を積み上げた外壁があるが、かつて豊臣秀吉が建てた方広寺大仏殿の石垣である。

 今は豊国神社となって秀吉を祀っているが、もとは秀吉が大仏殿をつくろうとした場所。秀吉の野心はとどまることを知らず、武家として初めて京都を支配した清盛を超えようとするつもりだったのか、方広寺大仏殿は三十三間堂も飲み込んで寺域に取りこんだ。その痕跡が堂の南大門と太閤塀として当時のまま存在しており権勢の名残をとどめている。

 さて大仏殿。完成間近だったところが慶長伏見大地震で倒壊、秀吉は完成を待たずに死んだが、復興は息子秀頼に引き継がれた。が、建造中の火災で焼失しやっと完成にこぎつたところが梵鐘の銘文「国家安康 君臣豊楽」に家康が難癖をつけてのちの大阪の陣のきっかけになった。寺は豊臣家を滅亡に導いた導火線となった曰くがつく。

 豊国神社から西からまっすぐの道は正面通と呼ばれている。いうまでもないが方広寺の正面だからだ。 大仏殿建立を謳い上げ、正面で平伏せよ、とでも秀吉は言うつもりだったのか。大上段に立った通り名だ。

 神社の西に五輪の塔が立つ塚がある。「耳塚」だ。晩年の秀吉は失政続き、その最たるものの朝鮮出兵の断末魔がここにある。

 半島で戦った大名らが敵将を殺した証として樽詰めされた人の「耳」が秀吉のもとに送られた。普通首実検するところだが輸送上の問題から人の部位として簡便な「耳」が選ばれた。朝鮮の兵士だったか一般市民だったか判らない。何か送れと言われ秀吉の興を損なわないように殺した朝鮮の人々から耳や鼻を削いで樽詰めしたものを送ったのだといわれてもいる。

 京観という言葉がある。歴史家奈良本辰也氏の言葉を引くと「京観とは『いかにも都らしい市街のたたずまい』といったものではない。敵兵の死体をうずたかく積み上げ、土をかぶせて武功の証明にした丘、それが京観だ。『京』は『みやこ』の意味もあるにはあるが『高い丘』の意味もある。京丘という熟語もあり、京観と同じだ」

 とすればみやこというのは夥しい死体が運ばれてくる地だと、いうことになってくる。こんなことを当時の側近や知識階級たる僧侶は知っていたのだろうか。秀吉は樽の中で塩漬けにされた耳がどんどん集まってくるのをただ喜んでいただけなのではないだろうか。「中国では真の武勇者は耳を集めて塚を造るものなのです」などと秀吉に入れ知恵した者がいたかどうか。

 秀吉は遺言通り阿弥陀ヶ峰に埋葬された。眼下に方広寺三十三間堂を見下ろす。

 付け加えれば智積院ももとは和歌山にあった寺院で秀吉の攻めにあって炎上、家康の時代になってこの地に再興された皮肉がある。

 大和大路七条。秀吉と一族の明暗が交差する地である。

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<耳塚>

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<正面通の道標>