京都いろいろ裏通り

京都の大路小路のあれこれをお届けします。

伏見はやっぱり伏水か? その②

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 伏見はやっぱり伏水か?
 
 3日ほど前にアメーバブログで次のような短い記事を書いた。
「欄干の柱に刻まれている「伏水街道」とは「伏見街道」とよむ。橋は二間と短いが、紅葉千本で名高い東福寺を流れる洗玉澗に架かる橋である。
灘と並ぶ関西の酒処伏見。京都盆地の地中を行く豊富な地下水が湧く地。
鎮守の社御香宮に日本名水百選の良質な水が湧く。そんな井戸が各地にある。伏流水の町としての伏水が伏見にてんじたか」

 (下は洗玉澗にかかる石橋 東山区本町通の東福寺前)

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 他の資料を当たっていると「秀吉と伏見時代」(中川正照著 ウインかもがわ刊)にこんなことが書かれていた。
 奈良時代に大和の国に本家をもつ土師部氏が洛南の地に暮らしていた住居は桃山泰長老付近にあったというから丁度、東山三十六峰が宇治川に臨む開いた台地のどこかだろう。
 土師部氏の出身は奈良市近鉄大和西大寺駅南側の菅原の伏見であるらしい(グーグル地図で確認すると「伏見保育園」という名が確認できる)。
「その名をとって台地近辺を「伏見村」と呼び、のち「伏見」となった。その後、平安時代に宇治の平等院を建立した関白藤原頼通の子、俊綱もこの地に伏見の名を取り「伏見山荘」を建てた」
 ということは「伏見」が先で、伏水は後でくっついて来た名前だななどと思っていると、また別の資料には「俯見」という記載もあって何がなんだか判らなくなって来た。
 たぶん古よりこの地に住む人が呼んでいた名前に、様々な思いをもった先人らが漢字を当てて年月が過ぎたということなのだろう。ちなみに漢字は明治12年に「伏見」に統一されたのだそうだ。

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(写真上 酒蔵を改造した店構えの焼き鳥「鳥せい」)造り酒屋「山本本家」の店。代表銘柄「松の翠」は表千家の茶事に使用される。喉越しのまろやかな深い味わい。店脇に伏流水「白菊水」が湧く。自由に飲める。