京都いろいろ裏通り

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ぶらっと伏見 (3)伏見城へ行ってみよう 秀吉時代の石垣を発見

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<今日2月2日の伏見桃山城大天守 晴れた空に模擬城でも威容が映えます>

 

今日は秀吉の時代のものだと思われる石垣を目にすることができた。参道へはまっすぐ天皇陵へは向かわず、醍醐道(だいごみち)と呼ばれる桃山と山科・醍醐地域に抜ける江戸期からある古い道を行く。天皇陵を下から見上げるつもりだ。

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伏見桃山御陵全容 google earthから>

三つめの矢印のあたりに来た。

これが例の230段の階段。見上げるとやはり高い。階段を登りつめたところのさらに上に天守閣があった。冒頭の模擬城を重ね合わせてみると迫力が伝わってくる。

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桃山御陵の230の階段>

 

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<昭憲皇后陵墓 明治天皇と同じ城円下方墳>

 

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明治天皇陵>

 

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<加藤次郎氏の古地図。秀吉時代の石垣を発見した場所 赤の丸印1と2>

 

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<赤丸1 今回目にすることができた増田曲輪直下の石垣>

 

これまで樹木に遮られて場所がわからなかった増田曲輪直下の石垣。これだけまとまって残っている場所はほとんどとない。幅10メートル高さ5メートルほど。

ここは幾度も研究者や調査団が入った場所だが、私は初めて位置を特定できた。昨年九月御陵地も台風21号の被害を受け多くの樹木が倒壊し、幸か不幸か見通しがよくなりたまたま踏み入れた場所に石垣があった。

 当然のことながら、冒頭の昭和期に作られた模擬城の写真と比べると石の形状や積み方が全く違う。

 大阪城と比べてもわかるのだが、大阪城の巨大な石垣はある程度石の形状や大きさを均等に揃えて積み上げられている。これ野面積み(のづらつみ)という。今残っている大阪城の石垣は江戸期のものだ。

 写真のように大小不揃いの石を積んでいく工法を野積みという。

 一方野面積みは江戸時代に入ってまもなく、城普請が増え石材の需要が増した時代の積み方だ。楔を打ち込んで岩を割る矢穴方式が取り入れられ、大量生産が利くようになった。

 稚拙な感のある野積みだということは江戸期以前とみてよい。つまり秀吉の建てた城の石垣だということだ。

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<赤丸2 増田曲輪西の崖の石垣>

 同様に目にしたのがここ。御陵地内では陵墓事務所近くにある。

 

 伏見城は徳川家により破壊され各地の移築されその痕跡は少ない。今回の発見は少ない遺物のひとつ。発見はまだまだある。            <続く>