京都いろいろ裏通り

京都の大路小路のあれこれをお届けします。

ぶらっと伏見 (4)伏見城へ行ってみよう 伏見城攻城戦にみる城郭の様子

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(写真① 養源院前の駒札)

  伏見に来るならお城に行ってみよう。

 

 東山三十六峰は稲荷山で途切れるが、伏見と山科を結ぶ大岩街道を挟んで連続する低い丘陵に伏見城は立っていた。木幡山などと呼ばれたりするがここでは判りやすく古城山と呼んでおく。

 今の城は昭和の築城ブームの時の遊園地(伏見桃山城キャッスルランド)の開園の目玉として1964年に建てられた模擬城であるが、大天守と小天守の堂々とした構えである。遠くからでもよく見える。伏見のランドマークであるのは今も変わらない。

 ということで書き始めた稿だ。「伏見城へ行こう」と過去2回書いてきたものの続編だが、実は、城は秀吉が伏見に建てた二つ目の城だ。家康もここに城を建てている。

 そしてこの模擬城だ。全部合わせると都合4回建てられていることになる。

 わかりにくい。

 伏見の城を1期から4期に分け、移り変わりを整理しておく。

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図1 Google Earthから 伏見桃山丘陵の上空写真

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(図2 加藤次郎氏作成の図 上記図1青枠に当てはめてご覧ください)

 

(1)1592年(文禄元年)

 ・指月の丘に隠居屋敷着工  

(2)1594年(文禄3年)

 ・隠居屋敷を拡張し城郭へと増改築→指月城(第1期)

 ※城の位置は図1の緑枠の1 

 ※近年マンション建設時に発見された石垣の一部が現場で確認できる。写真②

 ※指月の丘から見える宇治方面。写真③

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(写真②)

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(写真③)

(3)1596年(文禄5年、慶長元年) 

・指月城完成 同年 慶長大地震で倒壊。

同年古城山の現在地に本丸を移し修築伏見城(第2期)

 ※城の位置は図1の青枠2︎

 ※赤線は外堀(現在の濠川) 

(4)1597年(慶長2年)

 豊臣秀吉伏見城へ居を移す 

(5)1598年(慶長3年)

伏見城がほぼ完成する。8月秀吉が死去。

(6)1600年(慶長5年)

関ヶ原の戦い前哨戦で大坂方(石田三成方)に攻められ城は落城し大半が焼失。 

(7)1601年(慶長6年)

徳川家康が城の再建に着手

伏見城(第3期)場所は概ね第2期と同じ

(8)1603年(慶長8年)

・家康が伏見城で将軍宣下を受ける(秀忠も1605年、家光も1623年に伏見城で将軍宣下式)

(9)1619年(元和5年)

伏見城の廃城が決まり、城門など城の各施設が二条城や淀城などへ移築。

(10)1623年(元和9年)

伏見城が廃城。石垣ひとつ残さない徹底した破却・破城。

 

 まず隠居屋敷。当初は宇治川を望む景勝地に隠居のつもりで建てた屋敷だった。ところが進めていた朝鮮への侵略戦争文禄の役」が膠着状態に陥り、決着をつけるための講和を模索、明国から使節団を受け入れることが決まり、講和会議を開くのに相応しい威容とするため城郭に拡張されたとされている。これが第1期の指月城。

 会議そのものは直前に発生した大地震で城が倒壊し、やむなく大坂城で開かれたと伝わっている。

 地震のあと直ちに建て直された。この第2期の伏見城は規模も相当拡大された巨城(図1で比べると一目瞭然)だったが、秀吉は2年足らずしか住まわなかった。

 この日本で初めて天下人となった稀有の武将太閤秀吉の死後、覇権を巡って石田治部少輔三成が率いる西軍大坂方と江戸内府・徳川家康の東軍に分かれ、互いに謀略を尽くし「関ヶ原」という終局に向かって進んで行く。

 

関ヶ原」の前に戦われたのが伏見城の戦いである。徳川方の武将が城代となって伏見城に立て籠っていた。これに対し攻城戦を挑んだのが石田方の西軍。秀吉の城に徳川方が籠城し、秀吉の筆頭奉行だった石田治部少輔率いる西軍が攻め立てる。

 

関ヶ原」前、秀吉の後継の豊臣秀頼淀君とともに大坂城にあり、五大老筆頭として徳川家康伏見城に住まい、「秀吉後」の拠点として各大名によしみを通じる裏工作を展開。 ただ会津上杉景勝はそれに乗らず、反対に越後・堀秀治の画策で謀反の嫌疑がかけられた。家康は軍を仕立て東征するため伏見城を発した。

 その際、家康は伏見城に子飼いの鳥居元忠を城代として一門の三河武将を残した。その数1800人。それを西軍4万が包囲した。

 郷土史家・加藤次郎氏作成の伏見城地図によると城郭の規模はざっと南北1.2キロメートル。東西1キロの広大さ。東京ドームが25個入る大きさである。

 天守台のある高さは標高100メートルで、その威容を知るには城外からの眺望で確かめてもらいたい(写真④)。

 模擬城が丘に屹立している様から想像してみると、城の威容は当時の攻城側の西軍を威圧せしめただろう。その大天守を有する城が堀と城壁と物見櫓で囲繞されている。普請好きの太閤秀吉が縄張りした城である。ちょっとやそっとでは落ちない。

 

 ここで城の堅牢さを山岡荘八司馬遼太郎の言葉を借りて説明したい。

 山岡荘八は「伏見の城郭はとにかく太閤が、その強大な力に任せて築城させた比類少ない堅城なのだ」

 また司馬遼太郎は「城は桃山丘陵上にあり、七つの小要塞を巧みに組み合わせてできあがっている。本丸、西の丸(二の丸)三の丸、治部少輔丸、名護屋丸、松の丸、太鼓丸の七つで、それぞれ連携して攻防できるようになっており、丘陵の下からの攻め口が少なく、防御には理想的な城といっていい」

 たとえば西から北そして東の周囲に堀がめぐらされ石垣が巡らされている。南側は230段の階段に見られるように絶壁である。

  

 7月9日、戦端がひらかれた。鳥居を主将とする三河勢は武辺者の集団である。もとより死城である。死ぬつもりの守備兵だ。そうやすやすと破れない。

 豊臣家五奉行のひとり、甲賀の里に近い滋賀県水口城主・長束正家の発案で籠城組に混じっている甲賀衆を籠絡しようとする。里に残った家族や一族を磔にするぞと脅すことに成功、内通者が城の北東は松の丸に放火し城壁も破壊。三成方が突入し各所に放火、8月1日、秀吉が贅を尽くした巨城は紅蓮の炎に包まれ、城代鳥居元忠は本丸に下がったところを紀州雑賀の雑兵・雑賀重朝に首を渡し城は落城した。

 

 京都には三十三間堂東側の養源院(写真①)や洛北鷹ヶ峰の源光庵などに血天井というものが残されている。伏見城の戦いで落命した徳川方の武将の血しぶきの痕跡だと言われているが、伏見城は大半が焼失した。戦いの跡だとわかるものは何も残っていない。

 戦闘の歴史がそこにあったという証左ではある。血天井が史実と異なるとも言わない。

明らかなのは、そう伝えたい誰かがいたということである。

 例えば養源院は徳川家の菩提のひとつで、お家の奮戦を歴史にとどめたいという意向が誰かの手によって働いたのかもしれない。

 歴史は勝者の歴史である。日本史も同様である。伏見城の痕跡がわずかな石塁しか現地に残されていないことでも明らかである。

 司馬遼太郎の言葉を借りれば、

「いずれ毀ってやる(こぼってやる)。伏見城よりも、伏見城を「毀てる」という権力を、家康はいま激しく欲している」

 家康と徳川家は一度は屈服させられ臣従した豊臣家を滅ぼし、城も滅却したのである。復讐である。

 <参考資料>

 山岡荘八徳川家康

 司馬遼太郎関ヶ原

 

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(写真④ 城西側 丹波橋通りから遠望)

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(写真④−2 城東側 紅雪町付近から)