ぶらっと伏見 (5)「伏見文化・観光の語り部」まもなくスタート
<伏見の総鎮守の御幸宮神社拝殿の家紋:三葉葵、菊紋、五七桐が並ぶ>
謎 家紋はどこからきたのか
今日2月24日は朝から伏見区役所と伏見観光協会が主催する観光案内「伏見 文化・観光の語り部」のリハーサルがあった。伏見は豊臣秀吉以来の城下町で神戸の灘と並ぶ酒処でもある。その魅力を味わってもらうミニツアーが間もなくスタートする。
「語り部」は昨年秋から準備が始まって研修を経た私を含め10数人が認定ガイドとして登録された。コースは3つほど予定されておりいずれも見どころ満載。
名所旧跡のポイントについてガイドはみな研修を受けたが、人を前にして話すのはこれが初めて。
ツアーを前にしてヘッドマイクと携帯スピーカーを装着して話す。本番さながらだ。身内だと言ってもやはり緊張する。
3つのコースのうち1回目のテーマは「山の伏見」に絞られている。総鎮守の御香宮神社からスタートし、伏見山に豊臣秀吉が建て徳川家康も関わった伏見城の痕跡を辿るものだ。
<御香宮神社 表門>
どの順番でガイドするかくじ引きがあり、なんと私は一番くじ。スタート御香宮神社を入ってすぐ私は慌ててマイクなどを装着しキックオフ。
「この社の表門は伏見城の遺構で、徳川家水戸藩祖頼房の寄進によるものといわれております」などと無難に滑り出した。ホッとしたのか調子に乗って、次の拝殿で行き過ぎた説明を加えてしまった。
極彩色の装飾が特徴の拝殿。紀伊徳川家藩祖頼宣の寄進だとされている。庇に三葉葵の御紋と菊の御紋それに五七桐紋が入っている。それぞれ徳川家、天皇家、豊臣家の家紋である。
「当社はこのように、これら三家のゆかりがあります」私はいったが、同行の郷土史家でこの企画のアドバイザー・若林正博氏からこんな話があった。
「拝殿の3つの紋、誰が付けたのでしょうね。三葉葵はいいでしょう。この殿舎は徳川家の寄進です。しかしなぜ五七桐があるのでしょう。ご存知の通り徳川家は豊臣家との並列を許さなかった。秀吉が死んでからの両家の反目はご存知でしょう。そこに五七桐を許しますか」
秀吉の死後、日本は石田三成の西軍と家康の東軍に分かれて戦った。「関ヶ原」で勝利した家康とその子孫は自分らに服従を強いた豊臣家を抹殺した。大坂の陣で秀吉の子・秀頼を殺し、秀吉の東山の廟所も毀し、秀吉が礎を築いた伏見城も「一木一石たりとも残すべからず」という苛烈な指示のもと廃城、破城された。
「おっしゃる通りです。江戸時代でしたらありえません」私は頷いた。
「だから三葉葵以外の家紋を誰がいつ付けたかです。それはわかっていません」
なるほど。確かにその通りだ。
秀吉は伏見にゆかりがある。今の伏見の礎を築いた人物だと言っても過言ではない。五七桐があっても疑問に思わなかった。
秀吉は伏見に城を築き、堀をめぐらし、宇治川の流れを変え、大名を住まわせ、商人職人を呼びよせ、天下人の町、すなわち首都機能を整えた。豊家の家紋があるのに対し疑問は起こらなかった。
しかし対徳川の観点では別だ。豊臣家を滅ぼすことに飽くなき執念を燃やしていたであろう徳川家。
豊臣家と徳川家。その反目と怨念。火花散る両家がなぜ庇の紋で並ぶのか。興味が尽きない。