明智藪に行ってきた(20201103)
【1】山崎の合戦敗北から落ち延びる明智光秀
明智藪に行ってきた。明智光秀が山崎の合戦で敗れ近江の坂本城まで落ち延びる途中落命した場所である。京都市伏見区を東西に分かつ伏見山(標高約110メートル)の東の山裾、小栗栖。国宝三宝院のある醍醐寺にほど近い。
合戦は大阪府高槻市と京都府乙訓郡山崎町の辺りで戦われた。近くの山の名を取って天王山の戦いともいわれる。1582年6月13日、主君織田信長を本能寺で討った光秀と変報を聞き中国地方から短期日で畿内に取って返した豊臣秀吉の軍勢がぶつかった。
その日のうちに決着がつき、敗走の光秀軍勢は逃げ込んだ勝竜寺城(長岡京市)から撤退、伏見の平野部を東へと横断し伏見山(標高約100メートル)の麓に到達。大亀谷から山科に下りる峠を越え小栗栖に至り(「明智越え」)近江を目指したらしい。が、付近の武士団飯田氏の一党に襲われ果てた、と伝わっている。
「明智越え」を歩いた。京阪丹波橋駅からだとざっと4キロ1時間少しの距離である。途中は鬱蒼とした竹藪である。戦国末期の、時代が移ろうあのときの想像を膨らませることもできる。
- ①駅から国道24号線に出て北上し、桃山水野左近東町の交差点で山手に入る。
- ②JR奈良線の踏切を渡り斜面を登り切ると北堀公園の前に出る。坂を上り詰め直進、やがて突き当たると墨染通りとのT字路だ。
- ③東に折れる。伏見城武家屋敷跡とある石碑がある。黒田長政の屋敷跡の案内板もある。すぐ右手の旧家の前に八科峠の石碑がある。
- ④そのT字路を北上し仏国寺のところを西へ小御香宮方面に向かう。手前で今度は再度北に向かい坂を上ると竹藪が見えてくる。
- ⑤薄暗い竹藪を進むと三叉路に出る。ここからは下りの一本道だ。
- ⑥舗装路に出ると左手に「弘法大師の杖の水」と称された祠がある。むかし、弘法さん(空海)が杖を突いたら水が出たという伝承が残る。
- ⑦道は左、左へととる。京都市立小栗栖宮前小学校をすぎるとやがて小栗栖八幡宮だ。
- ⑧本経寺を目指して歩けばその裏手に「明智藪」の石の碑があり、小さな坂を下りたところには「明智藪」と記された駒札がある。明智光秀が打たれたと言われる場所と書かれている。実際に襲撃を受けた場所は5メートルほど離れた場所だったようだ。
周辺は宅地開発の途中なのか、重機で新しく地面を均したような獏とした整地跡が残る。駒札のあるあたり二坪ほどが「ワタデ」と呼ばれている。光秀の腸(はらわた)が飛び出た場所だという。
明智藪の前には土塁のような地面の盛り上がりがある。ここの地侍というのか土豪というのか飯田氏の砦(小栗栖城跡)だったと言われている。(※飯田氏は室町時代に相模国の飯田越中守家秀が足利尊氏について京にのぼり小城を築いたと伝わっている)。
峠を下ってきた竹藪に飯田一党の砦があったというわけだ。光秀ら一行がそれを知らなかったのか、裏切られたのか、わからない。ただ、農民に殺されたのではなさそうである。また竹槍ではなく錆びた槍で突かれたのだ、と伝わっている。
(写真下 本経寺の光秀供養塔)