明智藪に行ってきた(20201103)
【1】山崎の合戦敗北から落ち延びる明智光秀
明智藪に行ってきた。明智光秀が山崎の合戦で敗れ近江の坂本城まで落ち延びる途中落命した場所である。京都市伏見区を東西に分かつ伏見山(標高約110メートル)の東の山裾、小栗栖。国宝三宝院のある醍醐寺にほど近い。
合戦は大阪府高槻市と京都府乙訓郡山崎町の辺りで戦われた。近くの山の名を取って天王山の戦いともいわれる。1582年6月13日、主君織田信長を本能寺で討った光秀と変報を聞き中国地方から短期日で畿内に取って返した豊臣秀吉の軍勢がぶつかった。
その日のうちに決着がつき、敗走の光秀軍勢は逃げ込んだ勝竜寺城(長岡京市)から撤退、伏見の平野部を東へと横断し伏見山(標高約100メートル)の麓に到達。大亀谷から山科に下りる峠を越え小栗栖に至り(「明智越え」)近江を目指したらしい。が、付近の武士団飯田氏の一党に襲われ果てた、と伝わっている。
「明智越え」を歩いた。京阪丹波橋駅からだとざっと4キロ1時間少しの距離である。途中は鬱蒼とした竹藪である。戦国末期の、時代が移ろうあのときの想像を膨らませることもできる。
- ①駅から国道24号線に出て北上し、桃山水野左近東町の交差点で山手に入る。
- ②JR奈良線の踏切を渡り斜面を登り切ると北堀公園の前に出る。坂を上り詰め直進、やがて突き当たると墨染通りとのT字路だ。
- ③東に折れる。伏見城武家屋敷跡とある石碑がある。黒田長政の屋敷跡の案内板もある。すぐ右手の旧家の前に八科峠の石碑がある。
- ④そのT字路を北上し仏国寺のところを西へ小御香宮方面に向かう。手前で今度は再度北に向かい坂を上ると竹藪が見えてくる。
- ⑤薄暗い竹藪を進むと三叉路に出る。ここからは下りの一本道だ。
- ⑥舗装路に出ると左手に「弘法大師の杖の水」と称された祠がある。むかし、弘法さん(空海)が杖を突いたら水が出たという伝承が残る。
- ⑦道は左、左へととる。京都市立小栗栖宮前小学校をすぎるとやがて小栗栖八幡宮だ。
- ⑧本経寺を目指して歩けばその裏手に「明智藪」の石の碑があり、小さな坂を下りたところには「明智藪」と記された駒札がある。明智光秀が打たれたと言われる場所と書かれている。実際に襲撃を受けた場所は5メートルほど離れた場所だったようだ。
周辺は宅地開発の途中なのか、重機で新しく地面を均したような獏とした整地跡が残る。駒札のあるあたり二坪ほどが「ワタデ」と呼ばれている。光秀の腸(はらわた)が飛び出た場所だという。
明智藪の前には土塁のような地面の盛り上がりがある。ここの地侍というのか土豪というのか飯田氏の砦(小栗栖城跡)だったと言われている。(※飯田氏は室町時代に相模国の飯田越中守家秀が足利尊氏について京にのぼり小城を築いたと伝わっている)。
峠を下ってきた竹藪に飯田一党の砦があったというわけだ。光秀ら一行がそれを知らなかったのか、裏切られたのか、わからない。ただ、農民に殺されたのではなさそうである。また竹槍ではなく錆びた槍で突かれたのだ、と伝わっている。
(写真下 本経寺の光秀供養塔)
台風一過。快晴と思いましたが曇り空。今日も走ってきました(20201011)
【1】早朝はなんとゴルフの打ちっぱなし
朝6時半からゴルフの打ちっぱなしに出かけた。1年半ぶりぐらいの地元の練習場。惨憺たる結果に猛省しながら帰ってきた。腕で振るからちゃんと当たらない、それが判ってから腰から、腰からと意識しながら、クラブを7番から5番、ユーティリティー、ドライバーととっかえひっかえしながら120球打った。バックスイングの腰はなんとかフィーリングは掴めそうだ。振り下ろす時のは、まだNG。あれだけ玉を費やしてまともにあたったのは30球ほど。イチからやり直し。
【2】忙しいけどやっぱり走っとこ
帰宅してからシルバーウイークの中山道歩きで道すがらお世話になった宿場の方へ遅くなったお礼状をひとつ書き、ポストに投函してからランニングに出かけた。
10時21分いつもの東高瀬川大信寺橋からスタート。コースは東高瀬川を南下し三栖閘門で左折し宇治方面に向かう。目標は先週の6キロ45分越超え。淀方面は途中の国道一号線を横断することができないので利用しない(今後も)。
とろとろと脚を動かす。右膝の皿の下らへんがほんの少し痛むので両膝にサポーターをはめている。太ももまで隠れるやつなのでデカイ。おまけに白だ。仰々しくて居心地悪いがそんなこと言ってられない。痛みがこないか用心して足を出す。先週の日曜日の記憶をたどり、1キロ8分のストライドはこんなのかな、と走る(ていうか、見た目歩いているのと変わらない)。
弥左衛門橋のところで土手を下り今度は宇治川派流に向かう。430年前豊臣秀吉が伏見城築城の際宇治川から水を引き入れ外堀とした大きな流れだ。桜並木が頭上を覆う。紅葉はまだ先のようだ。
呼吸はOK。胸のあたりもまったく苦しくない。2週間ほど前までの息の苦しさはなんだったのだろう。いい調子。10分ほどたったが、しんどい、止めたい、もうこの辺で、といったネガティブ感情は現れない。これは進歩だ。
【3】三栖閘門から宇治方面へ
そのまま宇治川の土手に上る。頭上を産業遺産の閘門の巨大な柱が覆う。
曇りがちだ。風がきもちいい。汗を飛ばしてくれる。右膝は問題ない。ピッチはスタート時から変わらない。多分1キロ8分なのだろう。北東に伏見城の天守閣が山の上に見える。430年前の天守閣ではないが往時も土手から見えたのかな、などと思いながら脚を動かした。
近鉄の宇治川鉄橋が迫って来た。ぱっと見にはなんの変哲もない鉄橋なのだが、実は日本一の長さのトラス橋(途中橋脚がない)なのだそうだ。
橋桁をくぐると今度は観月橋だ。秀吉の時代は豊後橋と呼ばれた。観月とは風流な名前だ。実際、宇治川のすぐ南一帯は巨椋池と呼ばれる大きな池があって、昔はそこに映る月影を愛でて粋人は遊んだものらしく、橋の名もそこから来たようである。
20分経った、脚は問題ない、呼吸も、気持ちも切れそうな感じはしない。ここでも観月橋の桁を潜る。走る、というより脚を動かし続ける。月見館という古い旅館を通り越してしまったら川面と家屋の単調な景色がだらだらと続く。45分にこだわるのもしみったれていて、どうせなら1時間のランに挑戦したくなって来た。よし1時間超えだ。1時間走り切る!。30分経ったら折り返そう、と気合を入れた。
【4】1時間を走りきれるかも
のろのろとだが着実に前に進んでいる。ずっと向こうに小さな橋が見えた。山科区の遠い山に水源を発する山科川が伏見で宇治川と合流している。そこに架かる橋。そこまで行こう、いい感じだ。左の太もも内側にぴりぴり来るものがあるが我慢できる。呼吸は乱れていない。額の汗が頬に飛ぶ。橋に着いた。桃山伊賀の橋。ここまで32分。よしUターンだ。
来た道を行く。ぼちぼちのろのろと。でも歩いていない。もう止めようの弱虫も現れない。強気が勝っている。ひょっとして1時間走りきれるのではないか。観月橋、近鉄宇治川鉄橋を越えた。三栖閘門も。そして宇治川派流に下りる。十石舟の遊覧船が川面を滑って行くのが視界に入った。息はまったく乱れていない。うれしい。走りきれるのではないか。左の太もものぴりぴり感はあるが問題ない。再び東高瀬川に上る。あと5分ほど。大手筋松本酒造のレンガ煙突が迫ってきた。あと少し。気がはやる。早く着きたい。気を落ち着かせる。慌てても同じだ。自分が脚を動かさないと前に進まないのだから。道端の枯れ草の数を数える。ゴミの数を数える。あと50メートル。ゴミがない、花を数えよう、花がない、あと10メートル、3メートル、着いた。
※走った時間64分(あとでグーグルで調べたら距離はほぼ8キロだった。1キロ8分)
秋深しということで今日も東高瀬川を走ってきた(20201003)
(1)減量にはランニングのほうがよいか
大学の某同期が「ウォーキングでは体重落ちへんしな」みたいなことをフェイスブックで書いてて「だよね〜」などと返信しながら己を振り返ってみると事実そうなのだ。歩いて減量するのは結構難しい。
一番の近道は白ごはんを食べないことに尽きると思う(僕は)。でもカツ丼だって食べたいし豚の生姜焼きでご飯がないってありえないし、ライスのないカレーライスも存在しない。だから、そういった好物を我慢せず好きなときに食べてなおかつ、体重を減らすにはそこそこカロリーを消費しないとアカンという結論に達したのである。
ウォーキングがシェイプアップに不向きだと言っているわけではない。時間あたりの消費カロリーがランニングに比べて少ないから。時間のないときは走って体重コントロールする方が効率的だと言っている。
最近諸事多忙で2時間ウォーキングに当てる時間がない。京都から東京まで中山道69次を歩くという勝手きままな旅物語にハマっているし(旅の記録の原稿起こしが大変)、同人雑誌の編集もある。というわけで週末は結構パソコンの前に座りっぱなしだ。その合間を縫って体重コントロールするにはやっぱり走る方がいい、ということになったのだ。
(2)10月3日のラン 胸は痛くならなかった
さてその昨日の状況。朝から昼過ぎにかけて中山道歩きの原稿起こしをやったあと、図書館へ行き夕飯の買い出しにでかけたあと夕方走ることにした。
いつものBROOKSの靴紐を締めて表に出て東高瀬川に上がったらちょうど16時だった。前回32分4キロだった結果を越えることを目標とした。とりあえず。
スタートは大信寺橋。アンダンテののろのろペース。呼吸がまた苦しくならないかに怯えながら。
金木犀がにおう。すっかり刈り取られて五分刈りになった土手に一群れ、ふた群れと赤いもの。彼岸花。虫取りの親子が網を振り回している。バッタが踏み潰されて地面に張り付いている。自分のシューズの音を聞く。ぱたぱた。まるで子供だ。
3分ほど経った。バイパスの高架をくぐる。呼吸はOK。うれしい。首の付根から下、2週間ほど前の肺の上部辺りの締めつけ感はなんだったのか。まったく痛みはこない。走り慣れていなかったせいで胸膜あたりが凝り固まっていたか。
12分ほどたって身体が熱くなってきた。脂肪の燃焼が始まったのか。
国道一号線の走る宇治川大橋が見えてきた。向こうに横大路ゴミ焼却場の煙突が見えてきた。よし、あそこまで行こう。
土手から直接橋を横断することはできない。信号も横断歩道もない。いったん地道に下りる。ダンプやトラックなどの排気ガスをもろにかぶる。右膝にぴりっと痛みが走る。歩幅を小さくする。さっき階段を下りた衝撃からかもしれない。要注意だ。息が上がってきた。足の蹴りをさらに小さくし呼吸を整える。これだと歩いてるのとかわらんなあ。
(3)洗濯物を干していたのに雨だ
ごみ焼却場の入り口に到達。門柱にタッチしてUターン。ここまで25分。これで往復6キロ50分のペース。遅すぎるが悪くない。止まらずに、歩かずに走りきれそうだから。
ダンプカーなどの出入りの門番の男を横目で見ながら、ラン。土手に上る。冷たいものがぱらっと来た。エアコンの飛沫? 建物なんかなにもない。雨だ。薄曇りだった空が黒くまた重くなっている。しまった、洗濯物を干したままだ。どうして取り入れてから出発しなかったんだろう。間に合うか? 最善の策は? このまま走って帰るしかない。スピードを上げる? でもまだ2キロばかり残っている。スパートは無理だ。
ボチボチ走る。空模様は大崩れしていない。宇治川から逸れ東高瀬川に入った。あと1キロと少し。京阪電車の鉄橋が見えた。土手を横切る踏み切りがある。警報機よ鳴らないでくれ! 鳴り出した。残り50メートルぐらいか。ダッシュ。遮断器が下り始めた。線路内に入った、出た辺りで背中に遮断器が下りきったのを感じた。電車が鉄橋を揺さぶり猛烈な音を立てる。
(4)もうあかん しんどい
ダッシュしたせいで脚全体に疲労を感じた。ペースを落とす。息が上がってきた。スタートラインの大信寺橋まで、橋の数で残り4つ。時計は4時40分を指していた。往路より5分早い。しかし苦しい。土手の両側は刈り取りを終えた雑草の切株の畑。枯れ草が散乱している。その枯れ草を走る目標にする。あの枯れ草、次の枯れ草、と追っているうちに10メートルほど進んでいる。
苦しいとき、遠いところに目標を置いていると気持ちが続かない。100メートル先の目標地点に到達するまで間に、様々なものが交錯する。諦め、継続、苦しいの感情が現れては消える。肉体的にはできるはずなのに、負の方、もうあかんの気持ちが勝つかも知れない。
そんなことだったら必ず達成できる1メートル向こうの手が届くところに目標を据えれば気持ちは維持される。たった1秒とない時間だ、気持ちが挫けることは少ない。それを積み重ねる。橋の袂まできた。残り3つ、走る。枯れ草を追って、枯れ草が見当たらなければ地面のひび割れを目標にして。残り2つ。彼岸花の群れが3っつ4っつ。その赤い輪も順番に追う。
ようし最後だ。のこり橋ひとつ。枯れ草と彼岸花、ひび割れ、地面のシミを追う。あと50メートル、ダッシュだ。20メートル、できるぞ、できるぞ、目標達成が。着いた。大信寺橋に。欄干にタッチ。タイムは45分。上出来だ。できたじゃないか。前回記録越えが。
前回タイム4キロ32分(1キロ/8分)、今回6キロ45分(1キロ/7.5分)
※ちなみに10月4日は3キロ25分だった。右膝に違和感。無理したらあかん。
秋を感じて 東高瀬川を走る 20200927
調子よく走れた。東高瀬川の土手に上がり宇治川まで行きそのままその堤を国道一号線まで走った。32分、約4キロ。
僕は京都市伏見区に住んでいる。東高瀬川は角倉了以が開削した高瀬川の脇を流れる川だ。江戸時代の人工河川の流量が減り近年になってつけられた。流れは琵琶湖を水源とする宇治川に注いでいる。北に京の鬼門を抑える比叡山や愛宕山を仰ぎ見るランニングコースだ。
ここ1年中山道歩きで履き倒したBROOKSのシューズを下駄箱から取り出し、靴紐を結ぶ前まで、走れるかな、どうかなと、億劫風に吹かれた。1週間ほど前は500メートルもたなかったから。
そのとき呼吸が急におかしくなった。走り出すと胸の上らへんがきゅうっと苦しくなった。立ち止まって深呼吸し気持ちを整えてから走り出したが、首の付根から下あたりがきゅうっとなるのは治まらない。
ひと月前の人間ドックでも肺にまったく異常はなかった。ネットで調べてみると狭心症などと恐ろしいことが書いてあった。いつもと違う点があるとすれば、2か月前腰を痛め、ろくにエクセサイズできなかったという背景がある。おそらくは運動不足が祟って肺とその周りの筋肉と肋骨のバランスがおかしくなっているのではなかろうか。素人の診断だが。
今日一生懸命走って痛みが続くようなら医者にみてもらおう。ともかく2か月前までのように30分の持久走ができるかどうか試してみよう。
いつ歩いてもいいようなスピードで走る。歩幅を小さく腕の振りも小さくスピードはまったく速歩きとなんら変わらない。まず呼吸が荒くならないように気をつけながら。
スタートは大信寺橋。明治ご維新の内戦、いわゆる戊辰戦争。薩長の官軍と会津や新選組らの幕府軍が争った戦争がここ伏見で戦端がひらかれた。大信寺橋はちっぽけな橋だ。東高瀬川にかかる車すら通れない歩行者用の橋。こんな橋の土手でも戦闘があり大勢が死傷した。自宅からすぐ近くの場所で。150年以上も前の話。
土手は2階建ての家の高さぐらいある。夏場は雑草がはびこり背の高さまで伸びていたが、上がってみると斜面もどこもかもきれいに刈り取られていた。陽射しに燻され乾いた土と草の匂いが立っている。青いバッタが2匹3匹飛んで回っている。斜面が丸坊主になって隠れ場所が見当たらないのだろう。
伏見のランドマークのひとつ松本酒造の赤レンガの酒蔵と煙突は目と鼻の先だ。明るい空をバックに時代を越えてきた建造物がいぶし銀の渋さを放っている。
走る。歩くようなスピードで。アンダンテ。ポコ・ア・ポコ。肺の痛みはまだなんともない。まだ1分も走っていない。風は追い風だ。どことなく身体が軽く感じられるのはそのせいかも。
いや、しかし来た。痛みが。きゅーんと来た。呼吸がしにくい。喉の付け根らへんが軽く押さえつけられる感じ。何メートルか走る続けるがやっぱりだめだ。
止めるか。
しかし息はできる。吸ったり吐いたりする頻度と強さを和らげてみる。歩幅を小さくし極めて歩きに近いスピードで調整してみる。
傍からみたらなんとのろまなランナーだことよ、とバカにしてみられているかもしれないが、そんなこと、どうでもいい。
とにかく肺がおかしいのか、骨と筋肉がおかしいのか。見極めよう。
走る。脚を交互に出して。ちょっとずつ、ちょっとずつ。
東高瀬川の終わりが見えてきた。宇治川に合流する場所だ。合流地点はテトラポットのコンクリートが無造作に積み上げられ、水が落ちて泡立っていた。その上のハクセキレイやシジュウカラなどがちょんちょんと跳ね回っていた。
風の向きが横風に変わった。風は乾いている。今日は北風なんだ。身体が火照ってきた。背中にじわっと汗を感じる。顔の横を打ち付ける風が軽くまたひんやりとして感じる。そうだ北風だ。そのことが嬉しかった。つい先日までのじっとりと湿って重い南風が止んだのだ。
走り出して15分が過ぎた、首筋を汗が流れる。額にも。走るスピードがすこし上がっている。無意識のうちに。そのことが不思議だった。調子が出てくるということはこのことなのか。と思ったときには胸の痛みもなくなっていた。呼吸に合わせ足が交互に出ている。呼吸と靴音と心臓の鼓動が適当にからみあって微妙なポリリズムを形作っている。整然と。これが自分の走るリズムなのだ。極めてアンダンテだが、気持ちいい。嬉しい。痛みがない。身体にどこも異常がない、なんて素晴らしいことなんだろう。
この日はそのまま国道一号線の宇治大橋まで行き、家まで往復した。
たった32分。しかし自分の走るリズムがつかめそうな感じがした。
京都市伏見区の明治天皇陵にも秋の気配が……
9月13日(日)。午前中はエッセイ「こんな本を読んできた」の続きを書き(内容は村上春樹の「辺境・近境」を取り上げた)。てこずってしまい、終わったら昼1時を回ってた。
昼飯に残っていた素麺4束を全部茹でて食べた。ぼくは素麺に目がない。長崎の島原のものだったがコシがあってわりといけた。ちょうど暑さも和らいで夏もいよいよ終わりそうな気配が現れた日に、季節の食材がきれいさっぱりなくなったのはいいリズムだ。
とはいえ、外はまだ蒸し暑かった。ナマケモノでも寝そべっていそうな気だるさだ。しかし日課はこなさなくてはならない。
階段トレーニング。
ぼくにとって230段の階段をなん往復かするのはマラソンランナーが毎日何キロか決めて走るのと同じだ。コロナ禍で中断しているがライフワークの中山道歩きのためにのトレーニングだ。家から歩いて30分ほどのところに108年前にできた明治天皇陵がありその参道につけられたのが230の石段である。
ザックに2キロのバーベルを突っ込んで出発する。ほんとうはもっと入れたいが今はまだ無理だ。歩きだすとその負荷を太ももの辺りに感じる。必要な部位に当たっている。いい感じだ。
スピードを上げて歩く。だるっこい暑さだが雲が多く陽射しがない。歩きやすい。国道を超え伏見山の麓まで来た。山といっても標高100メートルほどの丘陵だ。山腹に開けた住宅街を抜けると参道に出る。
砂利が敷かれた道の両側に杉木立が高く張り出している。曲がりくねった道だ。1キロほどもある。明治天皇が亡くなったとき東京での大喪の礼のあと棺は京都まで運ばれ、この参道を担がれて行った。
230の大階段
230の階段についた。展望が開けている。宇治市、城陽市、さらに向こうの金剛山系まで見える。
この景観を見下ろすようにしてあるのが明治天皇の墓である。上円下方墳が白木の鳥居三体の奥に座している。
階段を下りる。ここはゆっくりと。春先に駆け下って膝を痛めたからだ。
登り返す。バランスに気をつけながら丁寧に脚を上げ下ろしする。
長い距離を歩き通すために必要なのは、そのスピードでなら歩き続けられる感覚を身体で覚えることだ。時速4キロを5時間持続できれば20キロ進むことができる。ちょうど京都から大阪までの半分、枚方ぐらいまでの距離だ。
それは階段でも同じだ。膝に痛みを覚えずにこの階段を10往復できるようになるのを今目標にしている。
6月末に腰を痛め8月の終わりまで長い距離を歩くことができないでいた。それが癒えブランクを取り戻そうとしている。
最上段まで来た。身体は汗ばんで来たが流れ落ちるまで至っていない。
きもちのいい汗というものに定義があるとするなら、額から汗がぽたぽたと落ちるぐらいの汗のかき方がぼくの理想だ。じわっとくる汗はすっきり感がない。老廃物が皮下で、肉の中で澱んでいる気持ち悪さが残る。
水を飲み、また階段を下る。今度はすこし速めに。下に到着。そしてまた登り返す。額に首筋に汗が浮いたのを感じた。腕に玉となっている。息を乱さずペースを守り一歩一歩歩く。身体の上下動を押さえ腰骨が斜め上に進む感じで少しずつ上る。
てっぺんについた。また水を飲む。下る。着く。また上る。汗がひっきりなしに落ちる。いい感じだ。しかし膝の裏がちりちりとしてきた。
三往復で終わりにした。
樹影の濃い西参道をジョグして帰る。蝉の声がまだ林間に満ちている。やかましいクマゼミの声はなかった。ミンミンゼミの声があった、投げやりな感じだ。ミンミンミンまではいいがジーっと未練がましい響きを残す。すねた子供が後ろをむいて鼻を啜り上げているネクラな感じ。ツクツクボウシはすっとぼけた鳴き声をたてたあとジュジュジューで終わる。底に残ったジュースを全部吸い上げているような粘着性の音だ。土手の草叢から虫の声がした。
若い女が二人、ふざけあって奥にむかっていた。ベトナムのアオザイを緩めきったような流行りのワンピースを着たのが両手を水平に上げて一回二回と身体を回転させている。それを相方が写メをとっている。笑い声がした。回っている女の子のスリットから白い足が向き出ている。まっしろだった。樹間から差した陽光が太ももを照らし出している。
影が長くなっていた。
夏の終りをさがして・・・暑いけれど京都四条三条を歩いてきた。
京都はやはり絵になる。橋からの眺め、ビルの谷間にふと現れる神社、東山の佇まいが四条三条の繁華街の借景にすらなっている。カメラを構えてみたくなるオブジェに困らない。山河や伽藍の風情ももちろんいいが、古い町が新しいものを取り入れた新陳代謝が生むギャップもまた味わいが深い。
駒札によると岬神社(土佐稲荷)は倉稲魂命(うかのみたまのみこと)と石栄神(せきえいのかみ) の二柱を祀っている。農耕、商売、土木、金工など諸行の繁栄や厄除けにご利益ありと地域の産土神として慕われてきた。岬という名の由来は室町時代初期に鴨川の中洲の突端(岬)に祠があったことが始まりとされている。江戸時代に入って、土佐藩邸の敷地に移されたが住民がお参りできるように道が確保されていたとも伝わっている。明治維新に入って土佐藩邸が売却されると幾多の遷移を経たあと現地に鎮座、大正2年(1913)に氏子らによって現在の社殿が建立された。
ぼくらの時代にここのDENENにはよく行った
MINIが映す世界とは
河原町通りから北山を見やる
ぼくらの時代の喫茶店はこことからふね屋
パティシエの手
デジャブな井伊家彦根城に行ってきた。
彦根は城下町である。
ルーツは佐和山城にある。戦国時代、浅井長政が小谷城で近江の北部を支配下に置いていたときはその枝城であった。浅井家が1573年に織田信長に滅ぼされると信長の家臣丹羽長秀が入った。
豊臣秀吉が天下人となると1590年台の初め頃(1591年?)石田三成が城主となり近世城郭を築き天守閣を建てた。四方に目を凝らし領民を睥睨する天守、築城には一定期間の地域情勢の安定が必要である。三成が佐和山を治めた時代は短かったが、領民には慕われすぐれた統治者だったともいわれる。安土城が葬られたあとに築かれた湖東の天守として豊臣時代時代の短い安定期の記憶をとどめるものだろう。
実は彦根城は食わず嫌いだった。この地には友人知人も多い、仕事でも頻繁に訪れた土地だが、どういうわけか城に登ったのは今回が初めてだった。安政の大獄という暴政を指揮した井伊直弼が藩主だったということが関係するかも知れない。実際暴政だったのかどうか。そこまで調べたり考えたりしたこともない。その上、吉田松陰のことはあまり深く知らないくせに、時代の先駆者、時の思想家を罰し斬首したというだけで井伊直弼のことを毛嫌いし、畢竟、この地の城までも遠ざけていたのである。これは高校生の時分にみたNHK大河ドラマ「花神」の影響なんだろう。吉田松陰ら志士が極刑にさらされる場面が妙に残酷な話として記憶にすりこまれてしまっている。
こんな前置き、どうでもいいか。
関ケ原の戦いのあと徳川四天王の一人井伊直政が佐和山に封ぜられた。
井伊家は静岡は浜松の北・井伊谷の豪族だった。ながく守護大名・今川家の配下にあった(この辺は「おんな城主直虎」に詳しい)。桶狭間の戦いのあと今川氏が衰退すると当主・井伊直政は徳川家康を頼り、また大いに取り立てられた。関ヶ原の戦いでは黒田長政らと東軍のまとめ役として家康を補佐した。
佐和山に入った直政だが関ケ原の合戦で受けた傷が元で1602年に病没。その子直継は幼少だったで家康が直政の遺志を継ぎ、天下普請として琵琶湖畔に今の城を建てた。
遠江の浜松から歴史を汲む彦根城。遠江は遠淡海(とおつおうみ)から来た名称。つまり都から遠い湖つまり浜名湖がある地のことだった。対して琵琶湖は近淡海(ちかつおうみ)。都に近い湖。両者を結ぶ地として彦根は位置づけられていると言っていいだろう。
※彦根城のマップなどは下記サイトを御覧ください。
右側の石垣は切り出してきた石を加工せずそのまま積んだ野面積み(のづらづみ)。左側は接合面を加工した打込み接ぎ(うちこみはぎ)という。打込み接ぎは安土桃山時代の終わりから江戸時代以降発展した築垣工法。野面積みは古い古典的な手法。打込み接ぎの方は、1854年の修理の際に積み直したものだという。
城郭はいくつもの堀や土塁で囲繞されるのが常だが、彦根城の場合、西側は琵琶湖に面し、その水を引いて内堀から中堀、そして外堀を築いた。外堀の内側には重臣らが、外には町民や足軽が暮らした。
足軽というと長屋住まいが想像されるが、彦根藩の場合、外堀の南側に集められ、屋敷をあてがわれていた。建物内は田の字形に玄関、台所、納戸、座敷の4部屋が連なっていた。武家屋敷としての体裁を整えていたのが彦根城下町の特長だった。