コロナで遠出は怖いので清水寺から八坂神社まで歩いた
同人誌の校了が終わりほっとして、といっても次の作品を書く気にもなれず、家で読書もいいが、クーラーを効かせた部屋でずっとというのも身体がおかしくなりそうだし、ということで町歩きに繰り出すことにした。
清水寺に行く。ここ数日のニュースからたぶん人は少ないだろうとふんでいた。9時に京阪丹波橋から特急電車に乗り10分もしないうちに清水五条に到着した。
五条坂を10分ほど歩くと大谷本廟の橋の前に出た。清水寺への道はその左手の五条坂の延長された道だ。途中、茶碗坂にわかれるがそのまま歩いた。朝早いせいか、ぼくを追い越す人も車も少ない。また坂を下ってくるものは何もない。土産物屋はやっと開いたばかりだ。そよとも動かぬ生暖かい空気が参道に澱んでいる。涼しいと思ったら開いたばかりの漬物屋の冷房の風だった。準備で葦簀を動かしたり値札を置いていったりしている。産寧坂との分岐にある七味屋はまだ閉まっていた。
人通りは思った通り少ない。朱塗りの山門を抜け本堂の前で金を払い舞台に向かう。途中の廊下で音の林に紛れ込んだ。梁や枠木に下げられた数え切れないほどの風鈴が軽やかな音色をたてている。鋳物の風鈴だ。
この世界文化遺産の大伽藍は音羽山の山中にある。堂宇は無論懸崖の上にどっしり構えている。これが谷底から風を呼ぶ。
風鈴は南部鉄の釣鐘型のものだった。岩手の小学校の生徒らがなにごとかを祈った文字が書かれている。コロナ退散、地震被害からの回復、家族の幸せ、進学や病気快癒……。きらきらと輝きだしかねぬほどの美しい音に目を閉じていると涼風が身体を抜けていくようにさえ感じた。
※風鈴を中で打つ金具を舌(ぜつ)というようです。
修繕中の本堂。大屋根の方は終わったがまだ舞台を谷底から支える柱のほうはまだ幕が張られていた。工事は先行きまだ長そうな様子だった。
地主神社、阿弥陀堂、子安塔と回って三本の流れを落とす音羽の滝に降りた。ところてんやあんみつを食べさせる茶屋があったが客はいない。郵便局が赤の軽四を停めて切手を売っていたが局員は諦め顔だった。
寺を出た。
産寧坂、二寧坂と下って高台寺へと向かう。人力車の車夫が暇そうに木陰で休んでいた。
暑い。地面を黒く塗り固めたような自分の影が丸く落ちていた。陽射しが首筋を灼く。セミの声が空気に張り付き膨らむばかりだ。
八坂神社に入り拝殿で賽銭を放り込み素戔嗚命を祀る疫神社で手を合わえた。祇園祭は中止だった。毎年切符入りしたころにお参りに来るのだが今年はそういうこともあって今になった。
昼飯は三条柳馬場にある「わたつね」で二八せいろそばを食べた。この店は二十年ほど通っている。
くそ暑いが大文字山を歩き下りてから南禅寺まで歩いた
気温は36度を上回るかもというのに出掛けていった。大文字山に登る。標高462メートルの比叡山に連なる小峰。
京阪三条から蹴上まで歩き、ねじりマンポのトンネルを潜ってインクラインから登った。11時過ぎ。日向大神宮に付属したお伊勢さんへの遥拝所をやり過ごし、15分ほどで明神山のマイナーピークを通過した。まもなくしていくつもの分岐線が交差する思案ケ辻に降りた。
若い男女のペアが迷っていた。「初めてなもんでわからないわあ」と人にものを尋ねているのか独りごとなのかわからない体で女の方が言っている。気恥ずかしいんだろうと思い「真っ直ぐですよ」と歩きながら言うと背中の方で「ああよかった」と二人の声が同時にした。
若い男女が山歩きをする。ぼくはそれをやったことがない。女の子を誘うのであれば海だった。山はダサいイメージだった。サザンオールスターズの歌や映画「ビッグ・ウエンズデー」の影響のせいだったかもしれない。アウトドアのデートは湘南に代表される海辺のイメージだった。少なくともぼくには。
それが今、年頃の男女が出掛け先として海も山も同じカテゴリーにあるようだ。聞くところによると、海に行けば水着に着替える。ボディーラインが顕になる。たるんだ下腹ではお互いみっともない。山は上下がっちり服を着てするスポーツだ。だから安心……。というわけだ。
ぼくにとって物好きがやるスポーツだった登山が関心事に移り変わったのは井上靖の「氷壁」を読んでからだ。雪山での遭難をベースに物語が進んでいく小説だった。スリルを味わいたい。危険な場所に行きたいという思いが募った。20年ほど前だ。家と会社の往復。土日は子供の習い事の送り迎え。鬱屈したものがあったのだ。
さて露岩で滑りやすい斜面のアップダウンと平坦な尾根歩きを繰り返す。
途中、何度も膝に手をついて休んだ。6月28日の奈良の当麻寺の二上山登山のあとぎっくり腰にやられ、そのあとほぼ2か月ぶりの登山だ。おまけにこの暑さ。汗が吹き出し腕に玉のような汗が浮かんでいた。シャツも帽子もぐっしょりだ。やってられない。嫌気も差してきた。塩飴を舐め、水を飲み、歩幅を小さくしながら歩く。それでも尾根に立ち谷からの風が通ると暑さもやわらぐ。
山頂。12時20分だった。石材を埋め込んだ三等三角点にタッチ。眼下の景色。東山連峰の低い山並みが蛇のようにうねって左右を山科と洛中に分けている。遠くは大阪と奈良を分ける生駒山系が灰褐色のスクリーンとなって立っている。大阪の高層ビル群が蜃気楼のように彼方に浮かびその中にあべのハルカスの影が屹立していた。神戸の方は北摂の低い山々のずっと奥に六甲山の先端が覗いていた。
湯を沸かしてカップヌードルを啜りコンビニのおにぎりを食べた。
12時50分出発。火床へ向かう。下り道を10分ほどで着く。五山の送り火の右側の「大」の文字が盂蘭盆の闇に浮かび上がる場所。今年は新型コロナの感染防止のために規模を縮小して執り行われた。
足下に京都盆地が広がっている。記憶の粒がおもむろに浮かび上がる。母校大学の校舎は京都御苑の四角く切り取られた緑の縁に固まっている。仕事で度々立ち寄った京都大学は吉田山のこんもりした緑の向こうに。学生のとき仲間と連れ立って歩いた鴨川が桜並木の線となって北へ伸びている。あいつは今どうしているだろうか、などと思いに耽る。
下山する。「大」の字の左の払いの階段をひたすらかけ下り、木々が垂れ下がり歩きにくい山道を行く。20分ほどで鹿ヶ谷についた。後水尾天皇が創建した霊鑑寺門跡の築地塀に沿って下る。寺門の前の道を南に行くとノートルダム女学院の高校中学がある。
哲学の道を通って南禅寺に向かう。陽射しがアスファルトを灼いている。首筋がひりつく。人は一人二人しか歩いていなかった。水彩の絵葉書を描いて売る画家が客の来そうにない物憂い午後に、桜樹の木陰で画用紙を広げて絵筆を動かしていた。
水路に沿って歩く。意外と川臭さはしない。藻が少ないせいだ。水は琵琶湖疏水の分線だ。田辺朔太郎(琵琶湖疏水の設計者)がつくったレンガ造りの水路閣から引かれたものだ。新島襄の墓がある若王子で哲学の道は終わっている。
永観堂禅林寺を脇に見、東山高校や野村美術館を左右に見ながら進むと南禅寺に着いた。
山門で休む。歌舞伎「楼門五三桐」の石川五右衛門が満開の桜を愛でて言う「絶景かな」の舞台だ。丸い礎石の上に太い柱が乗り桁を支え、さらにその上の桁を隆々とした桝組が腕を伸ばすようにして支えている。建築物の重みを感じながら山靴を脱いで寝転がる。屋根が落ちてきそうだ。風が渡り青紅葉の枝葉が動くのを感じる。階段のところで若い女が言葉を交わしている。「かき氷…」「カワイイ」「ええやん」。ツクツクボウシが鳴き騒ぐ。クソ暑かった山中で喘ぎ喘ぎ登ったしんどさが瞼をよぎる。目を閉じる。
むかし誰かと来た。同じように登山のあとだった。確かこの山門の上に登って涼を得た。涼しいねと言い合うくせに写真は撮らなかった。相手にレンズを向けて撮ることを遠慮したのか、撮ることが咎められたか、撮ることで自分の心中が読まれることをためらったからか。
近江・五個荘の金堂に行ってきました
6月20日(土)東近江の五個荘金堂を訪れた。今回が二度めだ。去年の夏にも来ているが、そのときは発作的に始めた中山道を東京まで歩くツアーの途中に立ち寄ったのだった(中山道歩きはこの3月に馬籠宿までいったところでコロナ禍の自粛でストップしたままだ)。
五個荘には一度は行ってみたい土地だった。もちろん司馬遼太郎が「街道をゆく」の中でこの村のことを書いているのは知っていた。商人の町だから積み上がった財で競い合って豪邸を建てたというようなことがこの集落では起こらなかった。
「成金趣味がかけらもなく。どれもが数寄屋普請の正統をいちぶもはずさず、しかもそれぞれ好ましい個性があった」「互いに他に対してひかえ目で、しかも微妙に瀟洒な建物を建てるというあたり、施主・大工をふくめた近江という地の文化の土壌の深さに感じ入ったのある」 司馬遼太郎はそんなふうに評している。
たしかにそうだ。長大な板塀、なまこ壁に舟板塀、土蔵、数寄屋造りの屋敷、見越しの松、めぐらされた水路。フォトジェニックな、和風の粋を集めたような佇まいがこの集落にはある。外国人が好きさそうな景観でいっぱいだ。「和」というテイストで集落は完全に囲われているのでテレビや映画のロケでしばしば使われている。観光客はほとんどいなかったが人気俳優が出演する映画などがもしこの地でロケでもしたら人がどっと来るであろう。
今日この地を訪れたのは文芸誌仲間で刀剣作家の北川正忠さんの作品展が町の東近江市近江商人博物館で開かれているのを見に行ったのだ。北川さんは今般、現代刀職展の最高峰・高松宮記念賞を受賞されたのだった。展示場ではビデオが流されており北川さん刀鍛冶の工程の一部が紹介されていた。そこで一つ発見があった。刃文だ。刃文は刃につけられた模様だがこれって槌でうちながら描き出すものだと思っていたが、焼刃土(粘土、炭粉、砥石粉を混ぜたもの)を厚く塗ったり薄くしたりして、焼入れたとき熱伝導の操作によって浮かび上がらせるものなのだ。北川さんの好みは丁子乱れという文様らしい。妖しいまでの光を放っている。
近江商人をルーツにもつ企業はあまたある。伊藤忠商事、丸紅、ワコール、 日本生命、東洋紡、小泉産業などなど錚々たる看板である。これらがすべて五個荘の出ではないけれどなにがしか事業を起こし継続していく上での精神的な土壌が近江の地にあるのかもしれない。「三方よし」とは「売り手によし、買い手によし、世間に1よし」の気風が商いを生業とする人々の血管に継承されてきているからかもしれない。
外村繁は木綿問屋外村家の三男としてこの地に生まれた。「草筏」で第一回芥川賞候補となりその後読売文学賞なども受賞した。
この畳はそんじょそこらの畳ではない。150年まえの畳が今なお残っている。足裏のふわふわ感はたまらない。中継ぎ表といわれる特殊な編み方でつくられたものだそうです。
ぶらっと伏見 (5)「伏見文化・観光の語り部」まもなくスタート
<伏見の総鎮守の御幸宮神社拝殿の家紋:三葉葵、菊紋、五七桐が並ぶ>
謎 家紋はどこからきたのか
今日2月24日は朝から伏見区役所と伏見観光協会が主催する観光案内「伏見 文化・観光の語り部」のリハーサルがあった。伏見は豊臣秀吉以来の城下町で神戸の灘と並ぶ酒処でもある。その魅力を味わってもらうミニツアーが間もなくスタートする。
「語り部」は昨年秋から準備が始まって研修を経た私を含め10数人が認定ガイドとして登録された。コースは3つほど予定されておりいずれも見どころ満載。
名所旧跡のポイントについてガイドはみな研修を受けたが、人を前にして話すのはこれが初めて。
ツアーを前にしてヘッドマイクと携帯スピーカーを装着して話す。本番さながらだ。身内だと言ってもやはり緊張する。
3つのコースのうち1回目のテーマは「山の伏見」に絞られている。総鎮守の御香宮神社からスタートし、伏見山に豊臣秀吉が建て徳川家康も関わった伏見城の痕跡を辿るものだ。
<御香宮神社 表門>
どの順番でガイドするかくじ引きがあり、なんと私は一番くじ。スタート御香宮神社を入ってすぐ私は慌ててマイクなどを装着しキックオフ。
「この社の表門は伏見城の遺構で、徳川家水戸藩祖頼房の寄進によるものといわれております」などと無難に滑り出した。ホッとしたのか調子に乗って、次の拝殿で行き過ぎた説明を加えてしまった。
極彩色の装飾が特徴の拝殿。紀伊徳川家藩祖頼宣の寄進だとされている。庇に三葉葵の御紋と菊の御紋それに五七桐紋が入っている。それぞれ徳川家、天皇家、豊臣家の家紋である。
「当社はこのように、これら三家のゆかりがあります」私はいったが、同行の郷土史家でこの企画のアドバイザー・若林正博氏からこんな話があった。
「拝殿の3つの紋、誰が付けたのでしょうね。三葉葵はいいでしょう。この殿舎は徳川家の寄進です。しかしなぜ五七桐があるのでしょう。ご存知の通り徳川家は豊臣家との並列を許さなかった。秀吉が死んでからの両家の反目はご存知でしょう。そこに五七桐を許しますか」
秀吉の死後、日本は石田三成の西軍と家康の東軍に分かれて戦った。「関ヶ原」で勝利した家康とその子孫は自分らに服従を強いた豊臣家を抹殺した。大坂の陣で秀吉の子・秀頼を殺し、秀吉の東山の廟所も毀し、秀吉が礎を築いた伏見城も「一木一石たりとも残すべからず」という苛烈な指示のもと廃城、破城された。
「おっしゃる通りです。江戸時代でしたらありえません」私は頷いた。
「だから三葉葵以外の家紋を誰がいつ付けたかです。それはわかっていません」
なるほど。確かにその通りだ。
秀吉は伏見にゆかりがある。今の伏見の礎を築いた人物だと言っても過言ではない。五七桐があっても疑問に思わなかった。
秀吉は伏見に城を築き、堀をめぐらし、宇治川の流れを変え、大名を住まわせ、商人職人を呼びよせ、天下人の町、すなわち首都機能を整えた。豊家の家紋があるのに対し疑問は起こらなかった。
しかし対徳川の観点では別だ。豊臣家を滅ぼすことに飽くなき執念を燃やしていたであろう徳川家。
豊臣家と徳川家。その反目と怨念。火花散る両家がなぜ庇の紋で並ぶのか。興味が尽きない。
ぶらっと伏見 (4)伏見城へ行ってみよう 伏見城攻城戦にみる城郭の様子
(写真① 養源院前の駒札)
伏見に来るならお城に行ってみよう。
東山三十六峰は稲荷山で途切れるが、伏見と山科を結ぶ大岩街道を挟んで連続する低い丘陵に伏見城は立っていた。木幡山などと呼ばれたりするがここでは判りやすく古城山と呼んでおく。
今の城は昭和の築城ブームの時の遊園地(伏見桃山城キャッスルランド)の開園の目玉として1964年に建てられた模擬城であるが、大天守と小天守の堂々とした構えである。遠くからでもよく見える。伏見のランドマークであるのは今も変わらない。
ということで書き始めた稿だ。「伏見城へ行こう」と過去2回書いてきたものの続編だが、実は、城は秀吉が伏見に建てた二つ目の城だ。家康もここに城を建てている。
そしてこの模擬城だ。全部合わせると都合4回建てられていることになる。
わかりにくい。
伏見の城を1期から4期に分け、移り変わりを整理しておく。
(図2 加藤次郎氏作成の図 上記図1青枠に当てはめてご覧ください)
(1)1592年(文禄元年)
・指月の丘に隠居屋敷着工
(2)1594年(文禄3年)
・隠居屋敷を拡張し城郭へと増改築→指月城(第1期)
※城の位置は図1の緑枠の1
※近年マンション建設時に発見された石垣の一部が現場で確認できる。写真②
※指月の丘から見える宇治方面。写真③
(写真②)
(写真③)
(3)1596年(文禄5年、慶長元年)
・指月城完成 同年 慶長大地震で倒壊。
・同年古城山の現在地に本丸を移し修築→伏見城(第2期)
※城の位置は図1の青枠2︎
※赤線は外堀(現在の濠川)
(4)1597年(慶長2年)
(5)1598年(慶長3年)
・伏見城がほぼ完成する。8月秀吉が死去。
(6)1600年(慶長5年)
・関ヶ原の戦い前哨戦で大坂方(石田三成方)に攻められ城は落城し大半が焼失。
(7)1601年(慶長6年)
・徳川家康が城の再建に着手
※伏見城(第3期)場所は概ね第2期と同じ
(8)1603年(慶長8年)
・家康が伏見城で将軍宣下を受ける(秀忠も1605年、家光も1623年に伏見城で将軍宣下式)
(9)1619年(元和5年)
・伏見城の廃城が決まり、城門など城の各施設が二条城や淀城などへ移築。
(10)1623年(元和9年)
・伏見城が廃城。石垣ひとつ残さない徹底した破却・破城。
まず隠居屋敷。当初は宇治川を望む景勝地に隠居のつもりで建てた屋敷だった。ところが進めていた朝鮮への侵略戦争「文禄の役」が膠着状態に陥り、決着をつけるための講和を模索、明国から使節団を受け入れることが決まり、講和会議を開くのに相応しい威容とするため城郭に拡張されたとされている。これが第1期の指月城。
会議そのものは直前に発生した大地震で城が倒壊し、やむなく大坂城で開かれたと伝わっている。
地震のあと直ちに建て直された。この第2期の伏見城は規模も相当拡大された巨城(図1で比べると一目瞭然)だったが、秀吉は2年足らずしか住まわなかった。
この日本で初めて天下人となった稀有の武将太閤秀吉の死後、覇権を巡って石田治部少輔三成が率いる西軍大坂方と江戸内府・徳川家康の東軍に分かれ、互いに謀略を尽くし「関ヶ原」という終局に向かって進んで行く。
「関ヶ原」の前に戦われたのが伏見城の戦いである。徳川方の武将が城代となって伏見城に立て籠っていた。これに対し攻城戦を挑んだのが石田方の西軍。秀吉の城に徳川方が籠城し、秀吉の筆頭奉行だった石田治部少輔率いる西軍が攻め立てる。
「関ヶ原」前、秀吉の後継の豊臣秀頼は淀君とともに大坂城にあり、五大老筆頭として徳川家康は伏見城に住まい、「秀吉後」の拠点として各大名によしみを通じる裏工作を展開。 ただ会津・上杉景勝はそれに乗らず、反対に越後・堀秀治の画策で謀反の嫌疑がかけられた。家康は軍を仕立て東征するため伏見城を発した。
その際、家康は伏見城に子飼いの鳥居元忠を城代として一門の三河武将を残した。その数1800人。それを西軍4万が包囲した。
郷土史家・加藤次郎氏作成の伏見城地図によると城郭の規模はざっと南北1.2キロメートル。東西1キロの広大さ。東京ドームが25個入る大きさである。
天守台のある高さは標高100メートルで、その威容を知るには城外からの眺望で確かめてもらいたい(写真④)。
模擬城が丘に屹立している様から想像してみると、城の威容は当時の攻城側の西軍を威圧せしめただろう。その大天守を有する城が堀と城壁と物見櫓で囲繞されている。普請好きの太閤秀吉が縄張りした城である。ちょっとやそっとでは落ちない。
ここで城の堅牢さを山岡荘八と司馬遼太郎の言葉を借りて説明したい。
山岡荘八は「伏見の城郭はとにかく太閤が、その強大な力に任せて築城させた比類少ない堅城なのだ」
また司馬遼太郎は「城は桃山丘陵上にあり、七つの小要塞を巧みに組み合わせてできあがっている。本丸、西の丸(二の丸)三の丸、治部少輔丸、名護屋丸、松の丸、太鼓丸の七つで、それぞれ連携して攻防できるようになっており、丘陵の下からの攻め口が少なく、防御には理想的な城といっていい」
たとえば西から北そして東の周囲に堀がめぐらされ石垣が巡らされている。南側は230段の階段に見られるように絶壁である。
7月9日、戦端がひらかれた。鳥居を主将とする三河勢は武辺者の集団である。もとより死城である。死ぬつもりの守備兵だ。そうやすやすと破れない。
豊臣家五奉行のひとり、甲賀の里に近い滋賀県水口城主・長束正家の発案で籠城組に混じっている甲賀衆を籠絡しようとする。里に残った家族や一族を磔にするぞと脅すことに成功、内通者が城の北東は松の丸に放火し城壁も破壊。三成方が突入し各所に放火、8月1日、秀吉が贅を尽くした巨城は紅蓮の炎に包まれ、城代鳥居元忠は本丸に下がったところを紀州雑賀の雑兵・雑賀重朝に首を渡し城は落城した。
京都には三十三間堂東側の養源院(写真①)や洛北鷹ヶ峰の源光庵などに血天井というものが残されている。伏見城の戦いで落命した徳川方の武将の血しぶきの痕跡だと言われているが、伏見城は大半が焼失した。戦いの跡だとわかるものは何も残っていない。
戦闘の歴史がそこにあったという証左ではある。血天井が史実と異なるとも言わない。
明らかなのは、そう伝えたい誰かがいたということである。
例えば養源院は徳川家の菩提のひとつで、お家の奮戦を歴史にとどめたいという意向が誰かの手によって働いたのかもしれない。
歴史は勝者の歴史である。日本史も同様である。伏見城の痕跡がわずかな石塁しか現地に残されていないことでも明らかである。
司馬遼太郎の言葉を借りれば、
「いずれ毀ってやる(こぼってやる)。伏見城よりも、伏見城を「毀てる」という権力を、家康はいま激しく欲している」
家康と徳川家は一度は屈服させられ臣従した豊臣家を滅ぼし、城も滅却したのである。復讐である。
<参考資料>
(写真④ 城西側 丹波橋通りから遠望)
(写真④−2 城東側 紅雪町付近から)
ぶらっと伏見 (3)伏見城へ行ってみよう 秀吉時代の石垣を発見
<今日2月2日の伏見桃山城大天守 晴れた空に模擬城でも威容が映えます>
今日は秀吉の時代のものだと思われる石垣を目にすることができた。参道へはまっすぐ天皇陵へは向かわず、醍醐道(だいごみち)と呼ばれる桃山と山科・醍醐地域に抜ける江戸期からある古い道を行く。天皇陵を下から見上げるつもりだ。
<伏見桃山御陵全容 google earthから>
三つめの矢印のあたりに来た。
これが例の230段の階段。見上げるとやはり高い。階段を登りつめたところのさらに上に天守閣があった。冒頭の模擬城を重ね合わせてみると迫力が伝わってくる。
<桃山御陵の230の階段>
<昭憲皇后陵墓 明治天皇と同じ城円下方墳>
<明治天皇陵>
<加藤次郎氏の古地図。秀吉時代の石垣を発見した場所 赤の丸印1と2>
<赤丸1 今回目にすることができた増田曲輪直下の石垣>
これまで樹木に遮られて場所がわからなかった増田曲輪直下の石垣。これだけまとまって残っている場所はほとんどとない。幅10メートル高さ5メートルほど。
ここは幾度も研究者や調査団が入った場所だが、私は初めて位置を特定できた。昨年九月御陵地も台風21号の被害を受け多くの樹木が倒壊し、幸か不幸か見通しがよくなりたまたま踏み入れた場所に石垣があった。
当然のことながら、冒頭の昭和期に作られた模擬城の写真と比べると石の形状や積み方が全く違う。
大阪城と比べてもわかるのだが、大阪城の巨大な石垣はある程度石の形状や大きさを均等に揃えて積み上げられている。これ野面積み(のづらつみ)という。今残っている大阪城の石垣は江戸期のものだ。
写真のように大小不揃いの石を積んでいく工法を野積みという。
一方野面積みは江戸時代に入ってまもなく、城普請が増え石材の需要が増した時代の積み方だ。楔を打ち込んで岩を割る矢穴方式が取り入れられ、大量生産が利くようになった。
稚拙な感のある野積みだということは江戸期以前とみてよい。つまり秀吉の建てた城の石垣だということだ。
<赤丸2 増田曲輪西の崖の石垣>
同様に目にしたのがここ。御陵地内では陵墓事務所近くにある。
伏見城は徳川家により破壊され各地の移築されその痕跡は少ない。今回の発見は少ない遺物のひとつ。発見はまだまだある。 <続く>
ぶらっと伏見 (2)伏見城へ行ってみよう
①伏見に来るならお城に行ってみよう。
町の中心大手筋商店街から東側に連なる低い丘陵(古城山)にお城が立っている。大天守と小天守の堂々とした構えである。遠くからでもよく見える。伏見のランドマークだ。
京都は寺と神社がメインだろっ、ていう人が大半じゃないだろうか。京都でお城と聞くと中京区の二条城ぐらいしか浮かばないっていう人も多いだろう。
都が置かれてからこのかた、京都では城郭は何度も築かれそして消えていった。長く続いたものは数少ない。残っているものは二条城ぐらいだ。大半は為政者の故意によって破却され、また戦乱の中で炎上焼失した。
②お城は模擬城
今、古城山に立っている城は鉄筋コンクリート造の模擬城だ。近畿日本鉄道(近鉄)が昭和39年に遊園地「伏見桃山城キャッスルランド」を開いたとき、呼び物にと建築されたものだ。
何を模したかというと16世紀の終わりから17世紀の初めにかけて、豊臣秀吉と徳川家康が築いた城郭・伏見城だ。洛中洛外図屏風など現存する資料を参考にして建築した。
伏見は京都市中心部のベッドタウンとしてひらかれた町ではない。太閤秀吉が築いた城下町だった。近鉄も太閤秀吉にあやかって城を建てた。
いにしえの縄張り(基本設計図)に即して建てられたものではないにせよ、昭和30年代は築城ブームが全国で沸き起こっていた。戦後復興の町のシンボルとして名古屋城をはじめ各地に城郭が築かれていった。そんな時代背景も手伝って伏見の山に城が築かれたのだった。
伏見の丘に立つ五重六階の大天守と三重四階の小天守。町のそこここから遠望でき、ときに江戸期の城下町に迷い込んだタイムスリップ感さえ人々にもたらす。しかしそこには城という「箱」があるだけだ。
キャッスルランドは21世紀に入って経営難に陥り2003年に閉園となった。城のほうは京都市が買い取ったが、耐震強度の問題で普段中に入れない状態が続いている。
何だ、入れないのか。
その通り取りだが、この城、秀吉と家康の二人の天下人が建築に携わった巨城だけあって周辺には、当時の様子を想像させる痕跡がふんだんに残っている。
普請好きだった秀吉が心傾けた絢爛豪華な威容を誇った城だった。秀吉が死んで関ヶ原の戦いが起こり、戦いの前哨戦で伏見城は焼け落ちた。それを家康が再建した。大阪の陣で豊臣家を家康が滅ぼし、政治が江戸中心に移った三代家光の1623年に城は破却された。
そんな数奇な運命をたどった城である。みなさんをお連れしたい。
古城山には今、1912年7月30日に崩御した明治天皇の墳墓があり一帯は明治天皇桃山御陵と呼ばれている。この御陵を訪れることで伏見城の痕跡をトレースすることができる。
③ お城(明治天皇陵)への行き方
山手に向かって歩く。鬱蒼とした杉林を中心とした森が現れる。一本の道がまっすぐ森の奥へと続いている。桃山御陵参道である。
<参道入り口>
④古地図 これがカギを握っている
ここで一枚の地図をご覧いただきたい。地元の篤志家で郷土史に詳しい加藤次郎氏が1953年に古城山を歩き書き上げた伏見城の縄張りだ。本丸、二の丸、三の丸、天守、そして秀吉の補佐官・石田三成が詰めていた治部少丸もある。
<加藤次郎氏作 1953年 伏見桃山の文化史 私家版>
この地図を手掛かりに歩いてみよう。
今は高い杉並木となっている砂利道の両側は秀吉や家康が生きたころ大名屋敷が連なっていた。漆喰の高い築地塀がめぐらされ甍が波打ち厳しい門が人を圧していた。わたし達は、今、フランスの遊歩道を思わせる左右対称の杉並木を歩いている。
<杉並木>
やがて桓武天皇陵への分岐点に着く。
<桓武天皇陵への道>
⑤城の大手門のあった場所
この陵墓への案内は後日にするとして先に進む。さて次に現れたのはひっそりと張られたチェーンだ。
<大手門のあった場所>
ここは実は伏見城大手門があったと言われる場所だ(地図では矢印の尻の部分の丸囲い)。石垣をうず高く積み上げた柱に乗せた櫓から兵が人々の登城を監視した。
もちろんここを徳川家康も前田利家も加藤清正も福島正則らそうそうたる戦国武将がくぐったに違いない。ここを駕籠に乗った家康が付き従う武将らとともに歩いたのだ。そんな420年近く前の有様を想像してしまう。
⑥明治天皇陵墓
さらに進むと明治天皇陵の墳墓の広庭に出る。
<明治天皇陵墓>
北側に三体の白木の鳥居。その奥に深い樹林を背景にした上円下方墳が見える。あの中に明治天皇の棺が納められている。
振り返って南側を見やると素晴らしい景色が広がる。目の前には宇治川を挟んで向島のニュータウン、宇治市、八幡市の佇まい、さらに天王山の戦いのあった山崎のあたりまで一望にできる。晴れた日には生駒山、大阪南部の葛城山まで望むことができる。秀吉や家康と同じ場所に立ってこの方角を眺めていたかもしれない。
<陵墓 南側の眺め>
この聳え立つ長大な階段をご覧いただきたい。全部で230の石段だ。天皇陵が築かれたときにできた参拝用の石段だ。相当ある。普段から鍛錬を積んだ者でないとすぐ息が切れる。
<210の階段>
思いおこしてほしいのは、秀吉と徳川の時代はここは崖だった。この高さだからこそ城に威風堂々があった。見る人を圧する強い城に見えただろう。
⑦天守閣のあった場所
さて天守閣の位置という気になるところを見てみよう。
もう一度墳墓をご覧いただきたい。天守閣は墳墓のちょうど後ろの位置にあった伝わっている。加藤次郎氏の地図では六角形(明治天皇墳墓)の後ろの赤丸で囲んだあたり。
墳墓の後ろに大天守と小天守が並んだ写真を頭の中で置いてみてほしい(写真を切りはりして創作して発表すると不敬罪に当たるかもしれません。ここは各自でお願いします)。
壮麗な様が想像できませんか。
重々しく甍を重ねた天守閣が丘陵に天に向けて立っていた。
そんな光景が420年前に実際に存在していた。
いつかCGで再現してみたいものだ(もちろん個人的に)
<続く>