京都いろいろ裏通り

京都の大路小路のあれこれをお届けします。

ぶらっと伏見 (1) 京都・伏見の見どころやグルメスポットをご案内します

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伏見桃山城(現在は模擬城、1963年築)

 

 京都伏見ってどんなところでしょうか?

 京都の伏見って聞くとピンとくるのは伏見稲荷大社でしょう。間違いありません。あの朱色の鳥居が何千体も延々と続く千本鳥居です。

 陽に染まって輝く鳥居の幻想的な光景に誰もカメラを向けずおれません。外国人が行ってみたい日本の観光地としていつもトップにいるわけです。京都に来る修学旅行生が訪れる先でもあるし、全国稲荷社の総本山で氏子の崇敬を集め初詣やその他の行事でも参拝客は多い。洛南(京都の南方面)で国の内外を問わずたくさんの観光客が訪れる場所が伏見稲荷大社です。

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千本鳥居

けれども伏見には他にもたくさんの見どころがあります。400年前、豊臣秀吉がひらいた城下町として往時の隆盛に思いを馳せる歴史的スポット満載ですし、徳川期の遺産もいっぱいです。幕末維新に飛べば坂本龍馬の足跡をたどることにも興味はつきません。戊辰戦争の経緯を歩いて確かめることも伏見では可能です。

 総氏神御香宮神社には地元市民の信仰が絶えません。徳川家康をはじめ徳川家の崇敬も篤い。

 

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 <御香宮神社拝殿>

 龍馬が幕府に襲われた寺田屋は伏見港の浜に面していました。伏見港は河川港。京都と大坂を結ぶ交通は当時淀川の水運が主流でした。この伏見港を作ったのも秀吉でした。秀吉が造成した外堀は現代に生きて琵琶湖第二疏水となって宇治川と合流し、往時を彷彿とさせる十石舟、三十石舟での遊覧を堪能できます。

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 <琵琶湖第二疏水 右は北川酒造の醸造タンク>

また日本酒好きにはたまらない場所でもあります。くろ板に白壁の酒蔵の街角は風情を醸します。晩秋の寒仕込の早朝町にはほのかに酒香が漂います。利き酒の店にも人の姿が絶えません。月桂冠大倉記念館に立ち寄り酒の歴史を紐解けば日本酒の蘊蓄も深まるでしょう。

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月桂冠大倉記念館 中庭>

 

 歴史と川と酒の息吹が香るまち伏見にぜひお運びください。

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<酒造りに欠かせない 地下水 「伏水」月桂冠大倉記念館内>

 

足許の京都⑯ 京都タワー

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(大和大路に架かる跨線橋からの眺め)

 できたとき色々物議をかもした構造物だ。6キロほど南の伏見の自宅からも見える。9階建ビルの上に立つほっそりしたフォルム。胴体は白で先端は赤が入っている。寺のろうそくを想起させるとか言う人もいるが、公式には京都の都市を照らす灯台をイメージしたものなのだそうだ。

 東京オリンピックが開かれた1964年12月の54年前のオープン。東寺の五重塔より高いものは建てないという不文律をめぐって政財界の建設推進派と知識人の反対派との間で意見が割れたが、高さなどの法規制が及ばない「工作物」という玉虫色の解釈で決着したとか。

 今でも古都にこんな建物がいるのか、などと論議を呼んでいる。「五重塔」と比べるとやっぱり分が悪い。どちらも人が建てたものに違いはないけれど空海の時代にさかのぼるものと、東京オリンピックのときのものとでは根本的に佇まいの風情が異なるし、「タワー」だと、まとう気品やエレガンスが「塔」にはるか及ばないように思える。

 でも最近私の中で「タワー」に対する見え方に変化が生じた。

 先日東京へ日帰り出張した。夜遅く東山の隧道から新幹線が抜け出て右側の車窓から夜間照明に浮き上がった「タワー」が見えたとき、「ああやっと着いた」という感慨が湧き上がるのを覚えた。気が休まる光景だった。もうすぐわが家だとほっとした瞬間だった。「タワー」に対しこんな風に感じたのは初めてだった。

 どこまでもビルが続き高層建造物に圧迫感を覚える東京。見上げる空がビルの輪郭に切り取られ遠く狭く見える窮屈感。広い空と山を見て歩く京都住民の私。たった一日の東京でのビジネス。会議と打ち合わせは4時間ほどだったが、息苦しい肩のこる時間だった。

 だから、だろう。「タワー」に安心したのは。建物の歴史や佇まいの違いはどうあれ、いつも見える白と赤の「灯台」に対して、いつかしら、愛着を覚えるようになっていたのだろう。東京へ行くのにすら疲れやすくなった歳のせいだとは思いたくないが・・・。

 

f:id:abbeyroad-kaz:20180321104240j:plain夜の五重塔大宮通から)

足許の京都 ⑮ 京都らしい風景

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(写真上 鴨川四条大橋から北山を見やる)

 京都らしい風景ってなんだろう、と時々考える。鹿児島なら桜島、富山なら湾からの立山連峰、大阪は道頓堀と通天閣、東京も同じくスカイツリーや東京タワーなどの構造物である。他、各地にいっぱい「お国自慢」「らしさ」があって選びきれない。

 京都はやっぱり鴨川だろう。これが見えたらやっぱり京都だなと思うものに東寺の五重塔もある。大阪方面からJRで帰ってきて塔の黒々とした姿が見えてくると「ああ、もうすぐだ」となにがしらの感慨を得ることができる。「らしさ」のひとつではある。

 でも個人的には、この鴨川の光景だ。視界のずっと奥の北山や大原方面から流れ来た賀茂川と高野川が合流し、まっすぐ都市の真ん中を貫く流れ。日暮れ前の最後の陽光を浴びて霞み見える峰々、夜を匂わす澄んだ川面、街の色もほんのりと朱色を帯びて黙して佇む。やがて先斗町の料理屋に火が灯り音まで聞こえてきそうな雅やかさを照らし出す。左岸にはアベックの語らう姿や酔客が行き交う様子も見えてくるだろう。

そんなことを考えながらいつまでも眺めていられる景観である。山紫水明とはこのことだ、とときに思う。

江戸の後期、「日本外史」を書き上げた頼山陽の寓居が丸太町橋から北に上がった鴨川西岸にある。山陽は東山と鴨川の絶佳を愛し我が家を「山紫水明処」と名付けた。日暮れが迫り比叡山に連なる東山三十六峰が紫色に染まる。鴨の水も透明度をまして川底の石までも見えてくる、その光景を表すのに山紫水明とはよく言ったものだ。

ちなみに山陽は酒好きで酒器にも凝り、東山と鴨川の流れを飽きずに眺めながら日暮れ時には酒を傾けたとか。

いいなあ。

鴨川河畔に家を買い縁側でごろりと横になってちびちびやる、そんな光景にあこがれている。

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(東山 華頂山から麓の八坂神社の佇まい 四条花見小路付近)

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京都駅ビルからの烏丸通の姿)

 

 

伏見はやっぱり伏水か? その②

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 伏見はやっぱり伏水か?
 
 3日ほど前にアメーバブログで次のような短い記事を書いた。
「欄干の柱に刻まれている「伏水街道」とは「伏見街道」とよむ。橋は二間と短いが、紅葉千本で名高い東福寺を流れる洗玉澗に架かる橋である。
灘と並ぶ関西の酒処伏見。京都盆地の地中を行く豊富な地下水が湧く地。
鎮守の社御香宮に日本名水百選の良質な水が湧く。そんな井戸が各地にある。伏流水の町としての伏水が伏見にてんじたか」

 (下は洗玉澗にかかる石橋 東山区本町通の東福寺前)

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 他の資料を当たっていると「秀吉と伏見時代」(中川正照著 ウインかもがわ刊)にこんなことが書かれていた。
 奈良時代に大和の国に本家をもつ土師部氏が洛南の地に暮らしていた住居は桃山泰長老付近にあったというから丁度、東山三十六峰が宇治川に臨む開いた台地のどこかだろう。
 土師部氏の出身は奈良市近鉄大和西大寺駅南側の菅原の伏見であるらしい(グーグル地図で確認すると「伏見保育園」という名が確認できる)。
「その名をとって台地近辺を「伏見村」と呼び、のち「伏見」となった。その後、平安時代に宇治の平等院を建立した関白藤原頼通の子、俊綱もこの地に伏見の名を取り「伏見山荘」を建てた」
 ということは「伏見」が先で、伏水は後でくっついて来た名前だななどと思っていると、また別の資料には「俯見」という記載もあって何がなんだか判らなくなって来た。
 たぶん古よりこの地に住む人が呼んでいた名前に、様々な思いをもった先人らが漢字を当てて年月が過ぎたということなのだろう。ちなみに漢字は明治12年に「伏見」に統一されたのだそうだ。

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(写真上 酒蔵を改造した店構えの焼き鳥「鳥せい」)造り酒屋「山本本家」の店。代表銘柄「松の翠」は表千家の茶事に使用される。喉越しのまろやかな深い味わい。店脇に伏流水「白菊水」が湧く。自由に飲める。
 
 

足許の京都⑭ 静かな時

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夜の産寧坂を歩きたかった。日中は足許やみやげ物屋のに気を取られ、高い声で交わされる会話に惑わされる。後ろから押されるように、上があるから上る坂。惰性で往来する石段。

夜の帳が黒々と下りるとき、坂の街並みは息を吹き返す。しもた屋は雨戸を閉ざししずまりかえり素顔を取り戻す。ひとつふたつの街灯をたよりに歩く一歩また一歩。鉄の板のように凍てついた石畳。雨濡れの光に冷気を宿す。行く人が来し方を振り返る夜。

足許の京都⑬ 大和大路七条界隈

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<写真は秀吉を祀る豊国神社>

 大和大路通は南北の長い通りだ。北は三条通から南はJR京都線に突き当たって本町通とか伏見街道と名前を変えて南下、紅葉千本の東福寺の山門や伏見稲荷大社の朱の大鳥居を横目に進み、赤煉瓦の洋館の聖母女学院校舎(旧帝国陸軍司令部庁舎)を見ながら下って、最後、国道24号線に吸収されて奈良まで続く。道の先端が奈良=大和に向かっていることから大和大路と呼ばれているようだ。

 見どころ満載の通りだが、京都でも一番おぞましく痛ましいものが集まっているエリアがある。七条大和大路界隈だ。大仏前交番を前に交差点に立ってみる。

 

 南に平清盛後白河法皇に献上した三十三間堂、東に京都国立博物館の煉瓦の壮大な洋館、さらに真言宗の巨刹智積院があって背後には阿弥陀ヶ峰が聳える。

 このエリアは豊臣秀吉とその一族の哀歓がこもっている。

 京都国立博物館の西側に巨岩を積み上げた外壁があるが、かつて豊臣秀吉が建てた方広寺大仏殿の石垣である。

 今は豊国神社となって秀吉を祀っているが、もとは秀吉が大仏殿をつくろうとした場所。秀吉の野心はとどまることを知らず、武家として初めて京都を支配した清盛を超えようとするつもりだったのか、方広寺大仏殿は三十三間堂も飲み込んで寺域に取りこんだ。その痕跡が堂の南大門と太閤塀として当時のまま存在しており権勢の名残をとどめている。

 さて大仏殿。完成間近だったところが慶長伏見大地震で倒壊、秀吉は完成を待たずに死んだが、復興は息子秀頼に引き継がれた。が、建造中の火災で焼失しやっと完成にこぎつたところが梵鐘の銘文「国家安康 君臣豊楽」に家康が難癖をつけてのちの大阪の陣のきっかけになった。寺は豊臣家を滅亡に導いた導火線となった曰くがつく。

 豊国神社から西からまっすぐの道は正面通と呼ばれている。いうまでもないが方広寺の正面だからだ。 大仏殿建立を謳い上げ、正面で平伏せよ、とでも秀吉は言うつもりだったのか。大上段に立った通り名だ。

 神社の西に五輪の塔が立つ塚がある。「耳塚」だ。晩年の秀吉は失政続き、その最たるものの朝鮮出兵の断末魔がここにある。

 半島で戦った大名らが敵将を殺した証として樽詰めされた人の「耳」が秀吉のもとに送られた。普通首実検するところだが輸送上の問題から人の部位として簡便な「耳」が選ばれた。朝鮮の兵士だったか一般市民だったか判らない。何か送れと言われ秀吉の興を損なわないように殺した朝鮮の人々から耳や鼻を削いで樽詰めしたものを送ったのだといわれてもいる。

 京観という言葉がある。歴史家奈良本辰也氏の言葉を引くと「京観とは『いかにも都らしい市街のたたずまい』といったものではない。敵兵の死体をうずたかく積み上げ、土をかぶせて武功の証明にした丘、それが京観だ。『京』は『みやこ』の意味もあるにはあるが『高い丘』の意味もある。京丘という熟語もあり、京観と同じだ」

 とすればみやこというのは夥しい死体が運ばれてくる地だと、いうことになってくる。こんなことを当時の側近や知識階級たる僧侶は知っていたのだろうか。秀吉は樽の中で塩漬けにされた耳がどんどん集まってくるのをただ喜んでいただけなのではないだろうか。「中国では真の武勇者は耳を集めて塚を造るものなのです」などと秀吉に入れ知恵した者がいたかどうか。

 秀吉は遺言通り阿弥陀ヶ峰に埋葬された。眼下に方広寺三十三間堂を見下ろす。

 付け加えれば智積院ももとは和歌山にあった寺院で秀吉の攻めにあって炎上、家康の時代になってこの地に再興された皮肉がある。

 大和大路七条。秀吉と一族の明暗が交差する地である。

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<耳塚>

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<正面通の道標>