京都いろいろ裏通り

京都の大路小路のあれこれをお届けします。

ぶらっと伏見 (2)伏見城へ行ってみよう

 

f:id:abbeyroad-kaz:20190126221620j:plain

洛中洛外図屏風(池田本)徳川時代伏見城

  

 ①伏見に来るならお城に行ってみよう。

 町の中心大手筋商店街から東側に連なる低い丘陵(古城山)にお城が立っている。大天守と小天守の堂々とした構えである。遠くからでもよく見える。伏見のランドマークだ。

 京都は寺と神社がメインだろっ、ていう人が大半じゃないだろうか。京都でお城と聞くと中京区の二条城ぐらいしか浮かばないっていう人も多いだろう。

 都が置かれてからこのかた、京都では城郭は何度も築かれそして消えていった。長く続いたものは数少ない。残っているものは二条城ぐらいだ。大半は為政者の故意によって破却され、また戦乱の中で炎上焼失した。

f:id:abbeyroad-kaz:20190126221950j:plain

伏見城(模擬城)旧伏見城お花畑山荘あとに立つ

 ②お城は模擬城 

 今、古城山に立っている城は鉄筋コンクリート造の模擬城だ。近畿日本鉄道近鉄)が昭和39年に遊園地「伏見桃山城キャッスルランド」を開いたとき、呼び物にと建築されたものだ。

何を模したかというと16世紀の終わりから17世紀の初めにかけて、豊臣秀吉徳川家康が築いた城郭・伏見城だ。洛中洛外図屏風など現存する資料を参考にして建築した。

 伏見は京都市中心部のベッドタウンとしてひらかれた町ではない。太閤秀吉が築いた城下町だった。近鉄も太閤秀吉にあやかって城を建てた。

 いにしえの縄張り(基本設計図)に即して建てられたものではないにせよ、昭和30年代は築城ブームが全国で沸き起こっていた。戦後復興の町のシンボルとして名古屋城をはじめ各地に城郭が築かれていった。そんな時代背景も手伝って伏見の山に城が築かれたのだった。

 

 伏見の丘に立つ五重六階の大天守と三重四階の小天守。町のそこここから遠望でき、ときに江戸期の城下町に迷い込んだタイムスリップ感さえ人々にもたらす。しかしそこには城という「箱」があるだけだ。

 キャッスルランドは21世紀に入って経営難に陥り2003年に閉園となった。城のほうは京都市が買い取ったが、耐震強度の問題で普段中に入れない状態が続いている。

 何だ、入れないのか。

 その通り取りだが、この城、秀吉と家康の二人の天下人が建築に携わった巨城だけあって周辺には、当時の様子を想像させる痕跡がふんだんに残っている。

 普請好きだった秀吉が心傾けた絢爛豪華な威容を誇った城だった。秀吉が死んで関ヶ原の戦いが起こり、戦いの前哨戦で伏見城は焼け落ちた。それを家康が再建した。大阪の陣で豊臣家を家康が滅ぼし、政治が江戸中心に移った三代家光の1623年に城は破却された。

 そんな数奇な運命をたどった城である。みなさんをお連れしたい。

 

 古城山には今、1912年7月30日に崩御した明治天皇の墳墓があり一帯は明治天皇桃山御陵と呼ばれている。この御陵を訪れることで伏見城の痕跡をトレースすることができる。 

f:id:abbeyroad-kaz:20190126222645j:plain

<JR西 奈良線桃山駅

    ③ お城(明治天皇陵)への行き方

 場所はJR西日本奈良線桃山駅からが近い(徒歩3分少々)。

 山手に向かって歩く。鬱蒼とした杉林を中心とした森が現れる。一本の道がまっすぐ森の奥へと続いている。桃山御陵参道である。

 

f:id:abbeyroad-kaz:20190126222905j:plain

<参道入り口> 

 ④古地図 これがカギを握っている

 ここで一枚の地図をご覧いただきたい。地元の篤志家で郷土史に詳しい加藤次郎氏が1953年に古城山を歩き書き上げた伏見城の縄張りだ。本丸、二の丸、三の丸、天守、そして秀吉の補佐官・石田三成が詰めていた治部少丸もある。

f:id:abbeyroad-kaz:20190126222950j:plain

<加藤次郎氏作 1953年 伏見桃山の文化史 私家版>

 この地図を手掛かりに歩いてみよう。

 今は高い杉並木となっている砂利道の両側は秀吉や家康が生きたころ大名屋敷が連なっていた。漆喰の高い築地塀がめぐらされ甍が波打ち厳しい門が人を圧していた。わたし達は、今、フランスの遊歩道を思わせる左右対称の杉並木を歩いている。

 

f:id:abbeyroad-kaz:20190126223144j:plain

<杉並木>


 やがて桓武天皇陵への分岐点に着く。

f:id:abbeyroad-kaz:20190126223251j:plain

桓武天皇陵への道>

 

 ⑤城の大手門のあった場所

 この陵墓への案内は後日にするとして先に進む。さて次に現れたのはひっそりと張られたチェーンだ。

f:id:abbeyroad-kaz:20190126223408j:plain

<大手門のあった場所> 

 ここは実は伏見城大手門があったと言われる場所だ(地図では矢印の尻の部分の丸囲い)。石垣をうず高く積み上げた柱に乗せた櫓から兵が人々の登城を監視した。

 もちろんここを徳川家康前田利家加藤清正福島正則らそうそうたる戦国武将がくぐったに違いない。ここを駕籠に乗った家康が付き従う武将らとともに歩いたのだ。そんな420年近く前の有様を想像してしまう。

 

 明治天皇陵墓

 さらに進むと明治天皇陵の墳墓の広庭に出る。

f:id:abbeyroad-kaz:20190126223631j:plain

明治天皇陵墓> 

 北側に三体の白木の鳥居。その奥に深い樹林を背景にした上円下方墳が見える。あの中に明治天皇の棺が納められている。

 振り返って南側を見やると素晴らしい景色が広がる。目の前には宇治川を挟んで向島ニュータウン宇治市八幡市の佇まい、さらに天王山の戦いのあった山崎のあたりまで一望にできる。晴れた日には生駒山、大阪南部の葛城山まで望むことができる。秀吉や家康と同じ場所に立ってこの方角を眺めていたかもしれない。

f:id:abbeyroad-kaz:20190126223753j:plain

<陵墓 南側の眺め> 

 この聳え立つ長大な階段をご覧いただきたい。全部で230の石段だ。天皇陵が築かれたときにできた参拝用の石段だ。相当ある。普段から鍛錬を積んだ者でないとすぐ息が切れる。

f:id:abbeyroad-kaz:20190126223842j:plain

<210の階段>

 思いおこしてほしいのは、秀吉と徳川の時代はここは崖だった。この高さだからこそ城に威風堂々があった。見る人を圧する強い城に見えただろう。

 天守閣のあった場所

 さて天守閣の位置という気になるところを見てみよう。

 もう一度墳墓をご覧いただきたい。天守閣は墳墓のちょうど後ろの位置にあった伝わっている。加藤次郎氏の地図では六角形(明治天皇墳墓)の後ろの赤丸で囲んだあたり。

 

f:id:abbeyroad-kaz:20190126222950j:plain

 

 墳墓の後ろに大天守と小天守が並んだ写真を頭の中で置いてみてほしい(写真を切りはりして創作して発表すると不敬罪に当たるかもしれません。ここは各自でお願いします)。

 壮麗な様が想像できませんか。

 重々しく甍を重ねた天守閣が丘陵に天に向けて立っていた。

 そんな光景が420年前に実際に存在していた。

 いつかCGで再現してみたいものだ(もちろん個人的に)   

                          <続く>