デジャブな井伊家彦根城に行ってきた。
彦根は城下町である。
ルーツは佐和山城にある。戦国時代、浅井長政が小谷城で近江の北部を支配下に置いていたときはその枝城であった。浅井家が1573年に織田信長に滅ぼされると信長の家臣丹羽長秀が入った。
豊臣秀吉が天下人となると1590年台の初め頃(1591年?)石田三成が城主となり近世城郭を築き天守閣を建てた。四方に目を凝らし領民を睥睨する天守、築城には一定期間の地域情勢の安定が必要である。三成が佐和山を治めた時代は短かったが、領民には慕われすぐれた統治者だったともいわれる。安土城が葬られたあとに築かれた湖東の天守として豊臣時代時代の短い安定期の記憶をとどめるものだろう。
実は彦根城は食わず嫌いだった。この地には友人知人も多い、仕事でも頻繁に訪れた土地だが、どういうわけか城に登ったのは今回が初めてだった。安政の大獄という暴政を指揮した井伊直弼が藩主だったということが関係するかも知れない。実際暴政だったのかどうか。そこまで調べたり考えたりしたこともない。その上、吉田松陰のことはあまり深く知らないくせに、時代の先駆者、時の思想家を罰し斬首したというだけで井伊直弼のことを毛嫌いし、畢竟、この地の城までも遠ざけていたのである。これは高校生の時分にみたNHK大河ドラマ「花神」の影響なんだろう。吉田松陰ら志士が極刑にさらされる場面が妙に残酷な話として記憶にすりこまれてしまっている。
こんな前置き、どうでもいいか。
関ケ原の戦いのあと徳川四天王の一人井伊直政が佐和山に封ぜられた。
井伊家は静岡は浜松の北・井伊谷の豪族だった。ながく守護大名・今川家の配下にあった(この辺は「おんな城主直虎」に詳しい)。桶狭間の戦いのあと今川氏が衰退すると当主・井伊直政は徳川家康を頼り、また大いに取り立てられた。関ヶ原の戦いでは黒田長政らと東軍のまとめ役として家康を補佐した。
佐和山に入った直政だが関ケ原の合戦で受けた傷が元で1602年に病没。その子直継は幼少だったで家康が直政の遺志を継ぎ、天下普請として琵琶湖畔に今の城を建てた。
遠江の浜松から歴史を汲む彦根城。遠江は遠淡海(とおつおうみ)から来た名称。つまり都から遠い湖つまり浜名湖がある地のことだった。対して琵琶湖は近淡海(ちかつおうみ)。都に近い湖。両者を結ぶ地として彦根は位置づけられていると言っていいだろう。
※彦根城のマップなどは下記サイトを御覧ください。
右側の石垣は切り出してきた石を加工せずそのまま積んだ野面積み(のづらづみ)。左側は接合面を加工した打込み接ぎ(うちこみはぎ)という。打込み接ぎは安土桃山時代の終わりから江戸時代以降発展した築垣工法。野面積みは古い古典的な手法。打込み接ぎの方は、1854年の修理の際に積み直したものだという。
城郭はいくつもの堀や土塁で囲繞されるのが常だが、彦根城の場合、西側は琵琶湖に面し、その水を引いて内堀から中堀、そして外堀を築いた。外堀の内側には重臣らが、外には町民や足軽が暮らした。
足軽というと長屋住まいが想像されるが、彦根藩の場合、外堀の南側に集められ、屋敷をあてがわれていた。建物内は田の字形に玄関、台所、納戸、座敷の4部屋が連なっていた。武家屋敷としての体裁を整えていたのが彦根城下町の特長だった。